どーしても気になったので

アニメの話でごめん。エヴァンゲリオンの拾九話について。ネタバレ注意。
追記:もちろんライトノベルを書くことに結構関係することです。
カテゴリの特性上ある程度意見が集まってからコメントには返信したいと思います


以下、放映当時視聴者から寄せられたコメント
「19話感想ですが、先週に引き続きダークな気分です(中略)さらに、再び初号機に乗ったシンジがとてもマッドな顔をした時は、なんだこれ?と思ってしまいました。ゲンドウに叫んで頼んだ時はすごく感動を覚えたんです。でも、それを見たら一気に冷めてしまって、逆に悪寒さえ感じました(中略)未知のものである限りこういうことが起こるのもしょうがないことと思えるのです。が、自分と同じ人間が何かを守るためとはいえ、180度人格が変わって、まるで、その行為を楽しんでいるかのようにしてたのが、あまりにショックでした」

結論から言うと僕は、シンジ君がマッドな顔をしたのはある意味でリアリティのある演出だと思う。シンジ君はあくまでただの中学生にすぎない。その彼が、統一した感情をもってそれとともに一直線に進む構図、というのは本来不自然だと思うのだ。

今大人になっている人は自分や周りがどうだったのか思い返してほしいのだが、「整理区分された『確かな』感情」が一貫した強烈な動機となって、自発的にそこからブレずに行動すること、なんていうのは実際の中学生にはそうあり得ないことではないだろうか?
この点は、今まで様々なフィクションが看過してきた大きな問題だと思う。
例えば、登場人物がある対象に「怒り」を感じれば何らかの大きなきっかけがなければ彼らはそのまま怒りとともに行動してはらそうとする──つまり敵を倒していくなど──といった一連の行動に統一がなければストーリーラインは簡単に崩壊してしまう。
要は、登場人物の行動が(読者にとって顕著な)ああすればこうなる、といった理屈にかなったものでしかないということだ。
(僕も含め)実際の子どもはそんなに筋の通った行動をするだろうか。むしろ彼らは気まぐれで、大人からすれば不可解な(或いは理不尽な)行為をすることで大人を困惑させることが多い。
その一方で子どもが、整理区分された感情による、筋道の通った行為に憧れるのもまた事実ではないだろうか。彼らは気まぐれな自分をもてあましている。
だから何かと理屈をつけて行動しようとするけれど、本人にも周りの子供にもそれが上滑りしている、心にもないことなのはなんとなくわかってしまう。そして彼らは、理屈の通った行動をすること、に酔って快感を覚えるのもまた確かであると思う。

ここでシンジ君に話は戻るが、どうも拾九話の一連の流れを見ていると、彼は「友人を傷つけられて大人に抗議し、それをはねつけられて逃げた少年が仲間のピンチに戸惑い大人に諭されて再び戦う」という筋道、つまり物語に沿って行動する自分に酔っていたのではないだろうか?(念のため言っておくと大人、の前者はゲンドウで後者は加持さん)
もちろん、文学なんかではこの子どもの特徴をみごとに描いたものも多い。
しかし、アニメや漫画、そしてライトノベルの多くはどうなのだろうか?子どもという読者に物語という快感を味あわせるため、この点を見て見ぬふりしていないだろうか?
僕一人の論理では不安なので皆さんのご意見をお聞かせください。