アフリカでゴリラ三昧の日々

この前エントリを書いた日に買った「狂乱家族日記」や、友人に勧められた「紫色のクオリア」を読んで、自分がなぜライトノベルとなじめないのか少しずつわかってきた。まあ、これについてはお勧めいただいた作品を読んでからゆっくり考えるとして。(こんな時に限って図書館が休館なのである)
ランジーン×コードの作者が文章や構成を上手くなったら紫色のクオリアみたいなの書くのだろうか。ただ、前者は読んでいて誠に悲しいくらい(つまり当時考えていた設定と被っていたのである)設定が見通せたせいで「シュン……」と終わってしまったのに対し、紫色のクオリアは僕の疎い理数系の話だったので、その点に関しては読んでて楽しいかな?もっと勉強せねば。
ただ思想方面とか専門分野と、キャラクターの切実な問題の結びつきということでは、僕はこういうのを目指していないのだろう。再確認。

ところで、今まで悩み続けていたことを解決する大きな発見があったわけで、本題はそっち。わざわざカテゴリを作ってまで書くほどのことか……まあ、これからちょっと間このカテゴリで書き続けてみることにする。
その悩んでいたこととは、「キャラクターの一人称が、多分に作者の個人的事情や内面で構成されてしまうことは、作者のエゴないしはナルシズムの倒錯が起こした欺瞞であって、人間を描こうとする意志の放棄ではないのか」だ。
結論から言うと、これは仕方のない話だし、また打開も可能なのである。
というのも、人間は「内面」が他人に存在するのを直接的に知ることはできないからだ。何かしら精神とでも言うべき存在をそのまま感じることができるのは、自分に関してだけである。
だから、他人にリアルな人間性というものを見出すにあたって、自分の行動や内面の移り変わりと照らし合わせて、そこに自分と同じ「内面」らしきものがどうやらあるに違いないと判断するしかない(ちょっと極端だが、フォローは後でする)。
つまり、作者が登場人物の内面を一人称の地の文でリアルに描こうとすればするほど、自分と一致してしまうのは必然であり、仕方のないことなのだ。これは、一人称の地の文がキャラクターの認識及び思考、つまり「内面」を直接文章にしたものであるからだ。
そうはいっても、自分とまったく違うタイプの人格が表現されていたとして、それへリアリティを見出すことだって実際ある。だがそれは、深層意識などの自分の精神の無自覚な部分がその表現によって照らし出されるのだと僕は考える。自分自身ですら把握していない願望なんかを、読んでいる小説のキャラクターが代行した時なんかにこの現象はおこる。そういう知らない自分を、色々な方法で多面的に知るのがいいのだろう。僕がこれの手段によく用いるのは、読書でも、特にエッセイだ。エッセイはいい。


まあそんなわけで、一人称の地の文及びその描写なんていうのは、キャラクターと作者の対話であり、それぞれの人間性の世界が接する一つの面上で行われているのだろう。では、この一面的な状況をどう打開するのか。
すごく直線的な発想だが、「複数キャラの一人称を書く」は有力な手段の一つだ。実は、もともとそれで今の作品は書きすすめていた。
重要なのが文体である。一人称の文章の書き方を、パッと見でわかるくらい意図的に転換して、キャラクターそれぞれの人格を反映させなければ意味合いが薄れ、そして読者が混乱する。
一人称とはまあ、様式や角度こそ違えどそれぞれのキャラクターの自己認識だ。だからつまり、自己認識の様式や角度の違いを反映させればいいということになる。ついでに言うと、僕の今書いてる作品(『時計都市のルナシー』という題。語法的におかしいこともあって、仮題である『イヴノイド』は取り下げた)のテーマの一つは自己認識であり、特に時間的なそれが問題になる。タイトルまんまですね。やっぱり一つのことについて考えると、ぜーんぶそれになっちゃうということか。それはさておき。
複数キャラの一人称を書くことがなぜ打開になるのか。そんなことをするとキャラクター全部、ひいては作品全部が作者のコピーになっちゃうのではないか。
Aというキャラクターで一人称を書いて、次にBへ移ったとする。すると、Bが見ている外的なものとして、Aは描かれる。一人称で描かれるのは、「内面」そのものだ。しかも、自己認識の部分なのだから、キャラクターが自覚的になっている部分しか描いていない。
とすれば、Bに視点が移ってからは、また別の角度から見たAだって描けるのである。外的な他人として描く時、キャラクターは作者の呪縛から解放される。なぜなら、他人の「自覚的内面」をリアルに描くことはできなくとも、それ以外は描けるからだ。


まあこんなわけで、ずっと悩んでいたことが解消される最初のピンが外れてくれたようで、万歳万歳万々歳です(←これも読もうと思う)。「自覚的内面」以外ってなんだよという話だけど、一応感覚的にはなんとなく掴んでるので、あとはこれを模索しながら書いていければいいかな……と。
まあさっき書いた以上に、実際問題として自分とまったくもって人格の異なるキャラクターの一人称を書ける人がいてもおかしくないし、それを目指すべきなのだろうけれど、特に僕みたいな人生経験の浅いのには、自分自身を参照するしかできないし、それを脱出する見通しも全くついていない。
できないことを悲観してもしょうがない。あくまで体得可能なこと、に向かってとりあえず若干の背伸びをしていきながら、できる範囲で最大限の試みをもって作品を仕上げるのが、当面は目標とせざるを得ないんだろうな……


追記:
今更な話だけれど、90年代後半の文化等は基本的に薄暗い。例えばポケモンのアニメのような明るいものからも、その背後に何かしら影を感じてしまう。昔のものは地味って言うけど、80年代とかのものにはこの影はあまり見受けられない気がする。
なんだかんだで、思春期に消費した作品よりも、僕の根本的な気分を作っているのはこの辺の記憶らしい。ここでこんな曲を流すか!?なんて、エヴァの弐拾弐話で子供ながらに強烈な印象を受けたのを覚えている。「おめでとう」もね……