多感とデフォルメと

 ちょっと間、息切れしていたのを回復するため休んでいたけど、そろそろまた歩き出すときかな。ていうか前まで書いた奴全部没にしたから、プロットは八割がたできているが本文は白紙の状態です。
 この際だから、見切り発車。もうちょっと考えればプロットの矛盾点とか抜けてるところとか直せそうだけど、その「もうちょっと」がいつも時間を無駄に取っていたような気がするし、もう私は知らん状態で突っ込んだ方がよさそう(時間的にも)。
 その上で、前回失敗していたことを心がけておこうと。そのうち最も大きなものが、「気分がなければ記号は描けない」的なのを意識していなかったことです。いつかチャットで、kaizenaiさんが「魂」について述べていらっしゃったのに、少し近いのではないかとも思います。以下、その概要です。
 よく「テンプレはテンプレでも組み合わせがオリジナリティ」だということが言われますが、個人的にそれは合っているようで的を得ていないのではないかと思います。ここでいう「テンプレ」はいわゆる「記号」に置き換えられると思うのですが(「ツンデレ」など)、何かしら表現したいものがあるからそれを具体化する、その結果が記号ではないかと。
 書く側はその表現したい「感触」を記号という形にする、読んでいる側はその記号の群れから背景にある「感触」を感じる。でも、おそらくこの「感触」が意識的に消費されることは少ない。なぜなら、記号までがおそらくは理性・理屈で扱える範囲であって、その先にある感触は理性で理解できることではないからです。
 実際、記号と感触以外にも、端々からその背景の世界を感じて一つの世界を再現するみたいなことを、人間は他の場所でもやっているわけです。それらは例えばエピソード記憶術や目の錯覚とか、あるいは24コマ/秒での映像の世界だったり、色々とあります。
 つまり、記号の組み合わせによって、その背景にある感触が感じ取られるわけで、だからこそ自然なものとして、一体感あるものとして説得力を持つのではないかと。(ここでの)記号はすべて、その感触の産物であるので。
 そうは言っても、記号は記号なりに魅力を持つことがあります。どうでもいいですが語尾の「ですぅ」っていう記号が僕は好きです。それはそれでいいのですが、要するに記号単体としてのインパクトの魅力もあれば、感触に由来する魅力もあるということになります。
 デフォルメという表現はそこらへんで応用できたらいいなぁ、と。デフォルメとはつまり、目を大きく描くとか、つまり極端な記号化にあたるようです。だから、デフォルメが行き過ぎると表現から感触が失われる。その一方で、感触にばかり重点を置くと、まあエンタメではなくなるわけですね。「記号─感触」の境界線ギリギリ、ここでこそ最も記号的にも感触的にもテンションが上がるのだと、勝手ですが僕は感じます。自分の中では「デフォルメボーダーライン」と読んでいます。
 ただ、さっきも述べたように感触は理性で扱える範囲を多少なりとも超えているのは間違いないかと。例えば「誰だってわかりあえる」というテーマがあったとして、それ自体は誰だってわかりあえるという言葉以上でも以下でもないわけで、広がりを持ちません。これを演繹してプロットにするのは個人的にやりたくないと(今回は、あくまで僕の方針を述べるだけなので)。

 考えていること自体はそんなに進歩した感じではないですが、やっと実践できるレベルにまで頭の中に定着したようです。うーん、なんとかこれで思うように文章が書けたらいいんだけれど……

追記:
 未発表作品に限って募集というえんため大賞の特性上、プロローグを晒したりできないけど、没った原稿も一部再利用するので同じく晒せない。没った原稿には自分ではよくわからない違和感がすごくあって、晒して読んでもらいたいとか思ったりするのだけれど……