何を考えて書くのか……

 傭兵ピエールさんの言葉が結構自分の中で響いたのか、方法論という言葉が頭の中で引っかかって、色々と考えていた。それで思ったこと。方法論、という言葉が指すものと、書く前に考えること全般、の区別ははっきりつけなくてはいけない、そして──これは僕の妄想なのかもしれないが──いわゆるHow to本と認識される出版物に心構えの類まで指南されているせいなのか、方法論と作品本体の構想以外に考えるもの全般、がかなり混同されているのではないだろうか。少なくとも僕は、自分に関していうなら今日まで気付かず混同していた。
 具体的に言うと、自分はどういうものを書きたいのかという探求や、どういう作品世界を自分は描くべきなのかという考察など、そういう価値観やある種のポリシーに近いモチベーションみたいなもので、これは執筆の根本的な原動力と言えると思う。方法論とはむしろ、それらをどうやって実現するか、どうやってエンターテイメントの形に仕上げるか、において道具としての面を持つのだろう。

 そしてこれも改めてわかったが、方法論は大概において実践に伴って考えていくほうがいいらしく、書く前に「こうやって書けばいいんじゃないかな」予測を立てすぎるのはやめたほうがいい。

「描写するときは必ず類語辞典から適切な単語を検索する」「プロットから予測した全体の枚数から章や場面ごとの枚数を予測してそれに沿って書く」「セリフは説明的になり過ぎないように」「毎日○○枚書けば上達が見込める」「シーンごとに詳細なプロットを作って時系列順に並べる」……など、それっぽそうなのはいくらでも浮かんでくる。だが、あくまでそれっぽそうなだけで、これらがマイナスに働く可能性や実現不可能な可能性を切り捨てている。

 そんなわけでまあ実践として練習するわけだけれど、その前に上に書いた「根本的な原動力」を考え直そうと思う。ある意味、コンセプトとも言える部分ですしね。

追記:

 ちょっと頭の中で考えれば、それっぽそうな言葉なんて幾らでも浮かんでくる。他の可能性を切り捨てるのではないかという憚りや吟味もなく「〜とはそういうものだ」「〜しているにすぎない」と末尾に付けることでそれっぽい度を一気に高めて悟ったふうを演じることもたやすい。とはいえ、可能性の切り捨てなんて論理を進めるにあたっては必ず直面する危険性だ。数学はこれで何度か証明された定理がひっくり返っている。言葉による表現が一般的にある側面を顕在化する一方それ以外の可能性を非顕在の暗闇に隠してしまうのもまた似たようなところがある。これらの選択は慎重であるべきはずのものだ。多分耳刈ネルリに感動したのはそのへんかなり関係してるんだろうなぁ。

 そういえば僕はこの前まで最近サブカル界隈で論じられる決断主義というのが生理的に受け付けなかったのだが、西尾維新みたいなのを決断主義と呼ぶのは表面的なネーミングの意味でナイスな判断なのではないかと予想する。なんで予想かっていうと、最後まで読めていないから。。。まあ、そんな安易な書き方を西尾維新がしているわけないが、アンチの一般的な偏見としてはこんなところなのだろう。それはそれでまずい読み方に違いないから、それこそ「慎重」に西尾維新は読解する必要がありそうだと睨んでいる。