デフォルメ初成功!!!

 今まで自分は表現することについての仮説をずっと発展させ続けていて、しかし仮説でしかないため信憑性が全くなくとても不安定だった。それはデフォルメという表現についてのものだった。一応、それが仮説として完成したのは昨日か一昨日くらいだった。
 それでついさっき、実際に書いてみる題材がたまたま見つかったのでやってみたところ、ようやくデフォルメという表現技法に初成功した。投稿作を七転八倒しながら書いていてできなかったことがやっと実現して、なんか達成感。
(ついでに言うと、やっぱ投稿したのは一次で落ちてた。途中までだった上、何を思ったか梗概は終わりまで書いている紙を付けて送ってしまったので、当たり前だが、それでもやはり反省すべき・改善すべき点がかなーり多いので、この作品自体への反省はまた今度まとめようと思う)
 とりあえず、それはどういう仮説だったか。
 デフォルメに必要な条件はたくさんある。僕に欠けていたそのうちの一つは、「開かれた意識」だった。逆に閉じた意識とは何かと説明するのも難しいが、とりあえず文藝賞に送った作品はそれ百パーセントで書いていた。ラディカルであることには間違いなくこの閉じた意識が必要だ。
 開かれた意識は、エンターテイメントをするのに必要なのである。それはどこに発揮されるかというと、面白いストーリーやデフォルメされた表現だ。内側への意識が一つのものに対し徹底的な認識の吟味を重ねるのに対し、外側への意識は多数の選択肢から状況や必要性に合わせて一つを選ぶほうに向かう。ここでの開かれている、とはそういうことだ。
 デフォルメとは要するに一つの部分を強調する、ことだ。それは言い方を変えれば、強調されなかった部分を非顕在の闇に隠すことでもある。だから僕は、その「一つ」を強調する鋭さが、同時に直接表現されていない側面への想像もかきたてる表現で、かつエンターテイメントとしてもすぐれているものを目指していた。それがデフォルメである(だから逆に、表現する対象を徹底して吟味し続ける「内側への意識」もデフォルメには必要なのだ)。
 ここで問題となるのは、より多数の選択肢へと目を向けその中から一つを選びとる力は、ある意味での頭の柔らかさであり、僕にそれが欠けていたことだ。内側と外側へのそれぞれへ意識を向ける力、この二つはおそらく「結晶性知能」と「流動性知能」ではないかという仮説が最近僕の中で出てきたのである。
 話はそれるが、乱暴な言い方をすれば結晶性知能は文系的で、流動性知能は理系的なイメージがある。これはそういえば、学校のカウンセラー(ってことは臨床心理士?)の人に聞いた話だ。哲学書やらなにやらに間違った(そして歪んだ)傾倒をして後者の欠落した僕の理数系科目の点数の悲惨さをみれば、これはとても納得のいく話である。また、ライトノベルの作家の人には理系が多いイメージがあるけど、実際作品での表現がそうした鋭いエンターテイメント性で成り立っていることもこれで説明がつく。
 それで流動性知能に欠けた僕がこれを何とかすべくとった対策の二つは、「ピアノを弾く」と「脳トレ」だった。ピアノはとても久しぶりで簡単な練習曲ばっかやってたけど、結構楽しめた。脳トレだが、DSとかのそれじゃなく、n-back課題というのがあって、これをやったグループとやってないグループでIQの値に差が出たという実験データがある折り紙つきの奴である。一年半ほど前フリーソフトで落とした二つをこれまた久々にやった。
 そんでまあ、一時的ではあるが脳の活性化した状態でやってみたら、なんかデフォルメに成功したのである。仮説は裏付けられたっぽい。これからは毎日ピアノの練習とn-back課題に励むことにする。

追記:
 本を読んでの感動が無かったここ最近だが、この前久々に、その方面を勉強しなおそうと買った内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」で激しく感動した。評判はかねてから聞いていたがここまでとは……特に第一章が衝撃的でした。
 後どうでもいいけどデフォルメってフランス語だったのか。「ボーダーライン」とか付けちゃだめだね。自分ばか丸出し……これからは別の名前で呼ぶ。