【小説】『天使がラブソングの』 第三章〜終章

 色々ありましたが、これでラストです。




『天使がラブソングの』

第三章

「つまりは宗教なんだ」
 佐久間先生の声が進路指導室に響きます。
 窓の外側からは地面を打ち付ける激しい雨音が聞こえてきます。そのうち雷の音も聞こえてきそうです。
 薄暗い進路指導室には私と佐久間先生の二人しかおらず、廊下の外も人の気配がなく、まるで怪談話をしているような雰囲気が漂います。
 象子の飛び降り事件から一週間が過ぎました。
 あの事件によって学校が世間から好奇の目にさらされる――そう覚悟していたのですが、不思議なことに事件の内容は外には漏れませんでした。どういう力が働いたのか分かりませんが、学校側で事件のもみ消しに成功したようです。
 全ての原因は私にあるのであり、私が然るべき罰を受けるべきだと主張しました。けれど、実際に罰を受けたのは象子にそそのかされてイジメに参加していた演劇部員達と飛び降りた人間を助けるという無茶をした天戸くん、そして飛び降りた象子自身。私自身にはおとがめなしです。生徒会長の解任もなく、辞任も受け入れられませんでした。。
 象子は現在骨折で入院中。天戸くんは厳重注意を受けましたがこたえた様子はなく、松葉杖をつきつつも、いつものように登校してます。
 人の口には戸を立てられないもので、生徒達の中には元凶である私に白い目を向ける者も少なくありません。けれど、私は毅然とした態度で生徒会の業務を行うだけです。やめさせてもらえないのならせめてその責務を全うするだけのことです。
 なにはともあれ、そんな慌ただしい一週間が過ぎた今、私は佐久間先生に呼び出されていました。もちろん、進路の相談ではありません。
 どういう心境の変化なのか、前回は教えてもらえなかった、天戸くんの正体を教えてくれるとのことです。
 そして、開口一番の言葉が前述のものでした。
「宗教……ですか」
 私は戸惑いながら、聞き返します。あまりにも断片的な言葉にその意味を把握できません。
「そう。これはとある宗教家――聖職者の失敗譚だよ」
 佐久間先生はただ遠くを見るような目で言います。
 雨音がさざ波のように何度も何度も窓を叩き、奇妙な沈黙を部屋にもたらします。
 遠くにある講堂から文化祭に向けて練習中の軽音楽部の演奏が聞こえてきますが、どこか調子が狂っているのか少し演奏しては始めからやり直しを繰り返しています。栗栖ちゃんは新しい彼氏である伊々田先輩と一緒に講堂にいるのでしょうか。
 そして、この雨の中、天戸くんはどうしているのでしょう。松葉杖をついているせいで彼は縦横無尽に周囲を跳び回ることができなくなり、非常に不便を感じているようでした。そのことで私も謝ったのですが、彼は気にしなくていいよ、と言ってくれました。
 あの事件の後も、私が彼の不作法を叱るのは変わりません。けれど、松葉杖で逃げられないせいか、それとも心境の変化なのか、はいはい、と少しは聞いてくれるようになりました。栗栖ちゃん曰く、変わったのは彼ではなく、私の方なのだそうです。私の叱り方に丸みが加わったと。それがいいことなのかは私には分かりませんが、前のように事態が悪い方向に進んでいる気配はありません。だとすれば、それはいいことなのかもしれない、と思います。
「神にその貞操を捧げることを誓った聖職者が居た。
 どの宗教かはこの際おいておくぞ。
 彼はその宗教の司祭として二度と女性に手を出さず、粛々と神の使徒として生きていくことを誓っていた」
 佐久間先生の語り口に私はとてもいやな予感がしました。この手の話は決して珍しいものではありません。だすとれば、次にくる展開もおおよそ予測できます。
「しかし、ある時、彼は美しい少女に恋をした」
 私は予想してた答えに、それでも息を飲みました。
 恋は神の祝福です。けれど、神にすべてを捧げることを誓った司祭に舞い降りたその恋はなんだったのか。
「二人は惹かれ合い、やがて一夜の過ちを犯した。
 ――聖職者は苦悩し、それを見た少女は彼の前から姿を消した」
 きっと、よくある話――なのでしょう。宗教によって司祭職に結婚が認められているものとそうでないものと色々あります。たとえばキリスト教でも、プロテスタントは牧師が結婚してもいいし、仏教でも浄土真宗ならお坊さんが結婚しても何も問題はありません。
 けれど、神の教えとしてそれが認められてない宗教にとって、その神の禁を犯したというのはとても辛く、重い足かせとなってその人間を苦しめるものとなるに違いありません。
「俺は神を信じてない。だから、だれも何も悪くない、と思うんだけどな。
 男女が出会って、恋をした。ただそれだけで罪悪感を感じるなんておかしな話だ」
 私の内心を読んだように佐久間先生はため息をつきます。もしかしたら、その司祭に感情移入して無意識のうちに何度も頷いていたのかもしれません。
「神の悪戯なのか分からないが、ただ一夜の過ちで、その少女は身ごもっていた。まあ、本当に一夜だけの過ちかどうかは分からないけどな。俺も本人にそう聞かされただけだし」
「下世話な茶々はいりません」
 軽口を叩く先生に私は思わず反論します。
「だったら肩の力を抜いてくれ。こちらとしても話しづらい」
「…………はい」
 そんなに私は思い詰めた顔をしていたのでしょうか。私は不承不承頷きます。
 先生はそんな私に苦笑いをしつつ、話を再開しました。
「周囲の反対を押し切って、彼女は子供を産んだ。産んじまった。
 でも、何が悪かったのか、その子供の出産は彼女の命を奪っちまった。
 天涯孤独だった彼女の死と子供の出産は遺言と共に父親の元へ知らされた。
 言うまでもないが、その子供が、游真だ」
 そこで佐久間先生はため息をつきます。
「……今でも、あの男に游真の出産を伝えたのが正しかったのか悩むところだ。いくら彼女の遺言でもな」
 思わず私は聞き返します。
「先生はお二人とどういう知り合いだったのですか?」
「母親の同級生だ。
 びっくりしたよ。ある日突然、美人のクラスメイトが冴えない俺を呼び出したんだぜ。
 どぎまぎしながら彼女に会いに行ったらとんでもないことを言いやがったんだよ。
 『妊娠してしまったの。誰にも内緒でお父さんに相談して欲しい』、てな。
 俺は医師の息子だったからな。そっからは内緒でずっと、彼女の妊娠から出産までを応援してきた。本当は、中絶を勧めるべきだったんだろうし、俺の親父もそれを勧めた。
 けど、渋る親父を俺は説得してしまった。彼女の出産を応援してしまった。
 それの結果が、この様(ザマ)だ」
 果たして私が同じ立場だったらどうしていたでしょうか。
 きっと、私も同じようにその彼女を応援していたことでしょう。生まれてくる命に罪はないのだから、と。カトリックにおいても人工中絶は禁止されています。生まれてくる命はすべからく祝福されるべきです。
「――先生は何も悪くないと思います」
「どうだろうな。分からん。ただ、俺が自分を許すことは難しいな」
「…………そうですか」
 生物の戸川先生は言っていました。あいつはまだ昔のことを引きずっているのか、と。きっと、この事があったから游真くんを引き取ったのでしょう。
 これで、先生と游真くんの繋がりはなんとなく見えました。けれど、肝心なことが分かりません。
「では、何故天戸くんはあんな風に? 野生児のような生活をしていたとかいいましたよね。今の話からは繋がりそうにないのですが」
 私の疑問に先生は何とも言えない複雑な顔をします。
「游真は父親に引き取られた。
 でも、俺は気づけなかったんだな。あの父親の狂気を。
 游真の父親は――遊穂さんの忘れ形見として游真が生まれたことをせめてもの救いと喜んでいた。けれど、それ以上に自分の犯した罪に絶望したのだろうな。
 結果、あいつが下した決断は予想の斜め上のものだった。
 あの男は突如として子供を連れて失踪した」
 区切られた言葉を埋めるように雨音が耳朶を打ちます。
 雨はいよいよ激しさを増していました。時刻は五時前くらいでしょうか。
 いつの間にか軽音楽部の演奏は聞こえなくなっていました。雨が激しくなったので練習を切り上げて帰ったのかもしれません。
「後で知った話だが、結論から言うと游真の父親が目指したのは、完全な人間――神の子として育てようとしたらしい」
「神の子?」
「ああ。何者にもとらわれなく自由で、純粋で、無垢で、それでいて高い教養を持ち、高い運動能力を持つ――あの男の描いた理想の人間を、だ」
 先生の言葉に確かに頷ける部分は幾つかあります。彼は確かに純粋無垢だし、運動能力も非常に高いものを持っています。
「……その割には彼はあまりにも子供過ぎます。わがままだし、分別をわきまえていません。そのうえ、教養も決して高いと言えません。普通の人間ならば知っておくべき事をあまりにも知らなさすぎます」
 私の答えを見越していたのでしょう。先生はその通りだ、と頷きます。
「お前の言う通り、あいつは子供すぎる。けどな、それがあいつの目指したものなんだよ。
 純粋無垢で、何者にもとらわれない。だから、分別なんて付かなくていいんだ。
 そして、人間のしがらみにも囚われない。だから、俗世間の常識もしらなくていい。
 あいつが求めたのは《永遠の子供》(エターナル・チヤイルド)だ。
 二次性徴前の、性欲に目覚める前の、無邪気な、無垢な子供のまま大人に育てようとした。
 まあ、これは俺の推測だが、要は性欲に惑わされない人間を作りたかったんだろう。神にその生涯を捧げたつもりが、女の子と一夜の過ちを犯したことをずっと悔やんで、だから自分の息子はそうならないように、二次性徴前の状態のまま育てたんだろう。
 その結果、海外の山奥で洗脳教育さ。虐待、と言ってもいい。どうやったかは分からない。だが、その結果はお前の知る通りだ。
 あいつの父親が死んで、ことが明るみになったのはこの夏。俺はすぐに海外に飛んで、あいつを保護しに行った」
 突飛な話に私は思わず耳を疑います。そんなことが可能なのでしょうか。一個人が自らの子供を育てるためにそこまで歪んだ行為が行えるものなのでしょうか。しかも、誰にも知られないまま。
「そんなことが――そんな荒唐無稽なことが行われたなんてにわかには信じられません。
 第一そんなことが明るみになったら大ニュースになってるはずです。いくら何でも私や他の人達が知らないなんてことはありえないはずです」
「そもそもあいつの父親は由緒正しい家の出なんだよ。だから、そんな大事ができる財力があった。そして、事が明るみになると今度はあいつの祖父に当たる人間が政財界に働きかけて事態をもみ消した。そういうことだ」
「…………っ!」
 ――佐久間先生は正気を失ったのでしょうか。
 こんな誇大妄想のような話、信じられる訳がありません。事実はもっと単純で、もっと現実的なものではないのでしょうか。そんなこと、現実にあるはずが――。
 ……と言いたいところですが、私も名のある家の娘です。私より数段レベルの高いお家の人間ならば、あるいはそれも可能だということを私は知っています。そんな家の人間ならば、あるいは海外の別荘で一人の子供を洗脳教育をしていたとしても――ありえない話ではないと思います。そういう身内の不祥事をもみ消す金持ちの話を幾度となく父からは聞いています。
 あまり信じたくはありませんが――ありえないこと、ではありません。
「――じゃあ、今回の事件も公に流布しないのは?」
 私の問いに佐久間先生は曖昧な笑みを浮かべます。
「――まあ、そう言うことだな。どこの誰が動いたか、は俺も言えないが」
 雨音が――部屋の沈黙を埋めます。
 窓に打ち付けられる雨の音が部屋に渦巻く様々な混沌の話を洗い流そうとしている――そんな妄想じみた思いが私の心に浮かんでは消えていきます。
「最初にも言ったが、この事は他言無用だ。絶対に口外してはいけない」
「――誰かに言ったって信じる人はいませんよ。そんな話」
 言いながらも、私の胸中は複雑です。
 先生の話は非常に荒唐無稽です。けれども、その説明を肯定できるほどに天戸くん自身が異常の塊です。
「どのみち、私は神に誓ってこの事は誰にも漏らしません。お約束いたします」
 神への誓いは神聖です。私にとっては決して破ることのできないものです。天に召されるまでこの事は未来永劫、お父様や弟にだって話すことはないでしょう。
「経緯はこの際おいておけ。
 大事なのは、あいつの父親が純潔を求め、游真に狂った教育を施した、と言うことだ。
 それにより、あいつの精神は子供のままだ。そして、なによりもの問題として、精神的に去勢されているというとだ。
 それが、堤谷が言っていた『性欲がない』ってことの正体だ」
 私は押し黙ります。
 一夜の過ちによって、子供を作ってしまった聖職者。その聖職者が目指した、性欲のない、天使のような子供――永遠の子供。
 何もかもが狂っています。
 飛び降り事件の後、私は象子にどうやって天戸くんの性欲がないか聞きました。彼女は天戸くんに私を取られるくらいなら、と裸で彼に迫ったことがあるそうです。しかし、象子の体に全く関心を抱かない天戸くんを見て、「きっとこいつには性欲がないに違いない」と確信したと言っていました。
 象子のその行動にも驚きましたが、健全な少年が女性の裸を見て無関心であるという異常性もにわかには信じられません。が、実際に彼は健全ではないのでしょう。
 ――彼は天使ではなかった。
 私が彼に見いだした天使は、彼の父親の歪んだ想いが作り出した歪んだ、人工の聖性だった、ということです。
 彼は私のことを嫌いだといっていました。そして、象子は明確に天戸くんを虐めていました。けれど、私が助けて、と言ったらすぐに助けてくれました。
 それは彼が慈悲深い、と言うよりは他人に対して深い執着がないだけなのでしょう。どんな嫌いな人間であっても、困ってる人がいたら助ける――なんていう人間も世界には存在します。私もどちらかと言えばその部類の人間です。けれど、その時だって私は内心嫌いな人間を助けることに嫌悪感や葛藤が生じます。イジメの現場を見たら、もちろん私は神の教えに従って助けに行きます。でも、内心「この子のこういう態度は虐められても仕方ないな」と思うこともしばしばです。時には「こんな子を助けたくないなぁ」と思うことだってあります。それでも、その葛藤を乗り越えてその相手を助けるのが私です。
 一方、彼は根本的に全ての人間を平等にみなしているのでしょう。口では嫌いだと言っても大して嫌いでもないに違いありません。嫌いと言った私と今の養父である佐久間先生、イジメられた相手である象子。この三人の誰が困ってても、助けて、と言われたら平等に助ける。そこにはなんの感情的な葛藤もない。言葉の上っ面だけならとても美談ではありますが、差別をしない、あるいは区別をしないということは誰も愛してないのと同じです。それこそ、路傍の石と人間も彼にとっては等価値なのでしょう。石ころを人間と同じくらい愛するのではなく、人間も石ころくらいにしか愛せない、歪んだ価値観。
 これでは、「神の子」の聖性とは言えません。
 さらに、象子の救出手段も狂っています。落下する人間に跳び蹴りを与えて近くの木に無理矢理着地させる――そんな方法をなんの躊躇もなく起こし、成功させる。あまりにも無茶苦茶です。もっとも、彼の頭脳はかなり高度なので、私の知り得ない緻密な計算の元になされたのかもしれません。ですが、たとえ成功すると確信をしていてもそんな無茶な行動、普通ならば躊躇するし、恐怖心から実行に移せないでしょう。
 勇気がある、と言うよりは恐怖心が欠落しているか、あるいは「モノを知らない」ただの無知か考えなしとしか言えません。
 なんということなのでしょうか。
 果たしてこんな所業が許されるのでしょうか。
「――そんなこと、神に許される訳がありません」
 思わず漏らした私の言葉に先生は肩をすくめました。
「許すも何も、今現実に起きていることだ。こんなことはありふれた悲劇の一つでしかない」
 先生の言葉に私は目を見開きます。
「ありふれた? こんなことが沢山あるわけありませんっ!」
「そら、似たようなケースは少ないだろうさ。
 けど、游真より酷い人生を送っているやつなんて地球上で幾らでもいる。むしろ、母親の故郷の国に帰ってきて、人生をやり直せているんだ。あいつはまだ幸せな方だ。
 それに、こうしてあいつを大事に思ってくれる人間も居る訳だしな」
 すべてを諦めたかのような先生の言い方に私は言いようのない怒りを感じました。
「他にも不幸な人間がいるからといって、彼の不幸が許される訳がありませんっ!
 どんな人間であろうと、幸せになる権利があるはずですっ!」
 我ながら青臭い言葉です。耳障りのいい正論です。現実はそんなに甘くないことを私は知っています。この言葉通りにならないことを何度も経験してきました。
 ――けれども、そんなこと、幸福を追求することを諦める理由にはなりません。
「ああ、だから、あいつにもいずれ一般的な意味で幸せになってもらいたい。
 あいつの体を調べてみたが、医学的には何も異常はなかった。人体改造や薬物投与のあとはなかった。まあ、汚れのない人間を作ろうとしていたからそれは当然かもな。
 で、――つまり、あいつの去勢は心因性のものって訳だ。どんな洗脳教育を受けたのか、性的な欲求を完全にシャットダウンさせられている」
「では、洗脳さえ解ければ、彼は元の人間らしい存在に戻れる訳ですね」
 私の言葉に先生はおそらくな、と頷きます。
「そんでもよ、俺と嫁のセックスを見せても何してもあいつはぴくりとも反応しなかったし、俺の嫁が様々な手でセックスアピールしても駄目だった」
「……ってええっ! 自分の養子に何してるんですかっ! あなたはっ!」
 あけすけな告白に私は顔を真っ赤にして糾弾します。
「ととと、年頃の息子にふふふ、夫婦の営みをっ! そのっ! 見せつけるとかっ! それが親のっ! 教育者のすることですかっ!」
「高山っ! 高山っ! 落ち着けって。游真はこれくらいの荒療治でもしないとだめだったんだって。俺の嫁精神科医だ。カウンセリングの一環として、あくまで心因性のインポ治療として行われた医療行為だっ! まあ、あいつは好奇心を持っただけで性欲回復には至らなかったんだけどな」
「そんなこと言って! 本当はちょっと露出趣味があるんじゃないですかっ!」
「……うん、まあちょっとな」
「……っ! ……っ! ……っ! ……っ!」
「痛たたたたっ! こら、叩くな! 叩くなって! ていうか、お前露出趣味が分かるのか?」
「――知りませんっ!」
 叩くのをやめ、顔を逸らす私。
 脳裏に我が友人たる栗栖ちゃんの顔がちらつきます。あの子のせいで私はすっかり耳年増になってしまいました。あの子は私にわざと刺激が強めのレディコミを貸してくるのです。
 ――まあ、せっかくだからそれらを全部読んでしまう私も私なのですが。
「なんにしても、あいつの性欲はいつ戻るか分からない。
 だから、あいつとの恋愛がご希望ならやめておけ。
 それが、俺からの忠告だ」
 先生はいたた、と叩かれた胸板を押さえながら言います。
 私は呆然とします。ここまではっきりと、彼を諦めろと言われるとは。
「しかし、彼が性欲を取り戻すには恋人が居た方がいいのでは?」
 私は慌ててて言いつくろいます。
「……恋人ね。でも、お前がいくらあいつに恋をしても、返って来るのはせいぜい友情くらいだ。愛が返って来る訳じゃない」
「でもっ! 性欲がなければ愛情がないとは限りませんっ! 
 子供を産めなくなった老夫婦だって愛情を持って暮らしているはずですっ!
 二次性徴前の小学生だって恋をしますっ!
 性欲がなくても愛は成立するはずですっ!」
 雨音が私の声を打ち消すようにざあざあと部屋を包み込みます。
 私の主張に、先生は静かに首を横に振りました。
「確かに、小学生や老人だって恋をする。でも、その源泉には性欲があるはずだ、てフロイト信者な俺の嫁は言ってたよ」
「でも……」
「そもそもあいつは異性に対する執着がないんだ。相手が男でも、女でも同じ反応をする。性別の違いなど、身長や体重の違いくらいにしか認識してないんだぞ」
「……でも」
「そんな相手に一方的に愛情を送るなんて、それは恋愛じゃない。
 返って来るはずのない愛を送り続けるなんて、それこそ信仰と同じだ。
 神への信仰と恋愛をごっちゃにしてはいけない」
「……でも、」
 言葉を遮って言いくるめようとする先生に、私はそれでも反駁を試みます。
 けれど、口をついてでたのは――弱々しい一言。
「でも、それじゃあ私のこの気持ちはどうすればいいんですか?」
 今度は先生が押し黙る番でした。
「相手はまともじゃないから諦めなさい、と言われてはいそうですかと簡単に諦められる訳ないじゃないですか。
 そんなの本当に好きって言えませんっ!
 私は――私は彼に恋してしまったのですよ!
 どうしようもないほどに!
 それこそ、自分がおかしくなってしまうほどに!
 彼を……天戸游真くんを、好きになってしまったのです。
 今更この気持ちを捨てるなんて出来ませんっ!」
 いつの間にか、私は涙を流していました。
 止めどなく流れる涙が、私の隠していた激情をあらわにします。
 ――ああ、そうか。
 今更ながらに私は自覚します。
 ――私は、こんなにも彼を好きだったんだ。
 まるでこの世に舞い降りた天使のような彼。
 でも、その偶像は偽者だった。人の手によって作られた歪んだ天使。
 だからどうだというのでしょうか。
 彼が育った家庭が狂っていたとしても、彼の純粋さを否定する理由にはならないはずです。たとえ偽者であったとしても、彼が純粋な存在であることに代わりのないはずです。
 もちろん、私は今正常な判断が出来ているとも思っていません。
 私は彼に会ったあの日からずっと、恋に狂ってしまっているのです。
 今更正気に戻れなんて言われても、手遅れなのです。
「――高山」
 先生は嘆息し、静かに語りかけてきます。
「お前は若い。
 まだ人生はこれからだ。
 そして今はこれからの人生を決定するために重要な、大事なとても短い青春時代にいる。
 そんな時代を、返ってくるかも分からない愛を投げ続ける不毛な作業に費やす必要はない」
 先生の言葉は大人です。あまりにも大人でした。
 ――そこが、気に入りません。。
「じゃあ、何故先生は天戸くんを引き取ったんですかっ!」
 私の指摘に先生は押し黙ります。
「天戸くんのお母さんが好きだったんですよね? 結婚した今でも! 死んだ人からは愛は帰って来ませんよ! これからも、ずっと! 先生の言い分なら、天戸くんは先生に対しても父親としての感謝は特にしてないですよね? 先生は血のつながりもない赤の他人である子供に、返ってくるはずのない愛を注いでいます。
 自分ではそんなことをしておきながらっ!
 よくもそんなことを私に言えたものですね!」
「お前には俺のようになって欲しくないんだよ」
「ええそのつもりですとも! 私は彼を諦めません!」
 私の宣言と共に再び部屋に静寂が戻ります。
 雨音だけが部屋の中を満たし、空気を重く湿らせます。
「……でも、お前は今の游真を好きになったんだよな?
 性欲を取り戻して、『神の子』でなくなった普通の人間であるあいつを好きになれるのか?」
「――それは」
「どのみち、この先待っているのはつらいことばかりだぞ」
 教師として、あるいは天戸くんの養父として、佐久間先生はどうしてもこう言わざるを得ないのでしょう。こうして私を否定してくるのは佐久間先生の、誠実さであり、優しさであると思います。
 ならば、正直に答えるしかありません。
「――分かりません。彼が人を愛せるようになった時、私が彼を愛せるか、そしてなにより彼が私を愛してくれるか、分かりません」
 ――それでも。
 私の胸の裡にはどうしても消し去ることのできない炎が灯っています。どんなことがあろうとも、たとえそれが間違っていたとしても、今更その炎を消すことなどできません。
「私を愚かな女だと笑っていただいても構いません。
 これはもはや、理性で説明できる問題ではなく、私個人の感情の問題です。
 私は、それでも、彼を諦めることができません」
 私の本音に、先生は深くため息をつきました。
「……そうか」
 先生は、しみじみと言います。
「ありがとう。あいつは幸せ者だな」
 それは、佐久間先生の心の奥底から出た本音なのでしょう。けれど、だからといって私の気持ちを完全に肯定できないのか、それ以上なにも言ってきません。
 雨音だけが私たちの間を流れ落ちていきます。
 これ以上議論をしても無駄でしょう。
 私も腹が決まりました。
 私は決意と共に聞きます。
「最後に聞きたいことがあります」
 真っ直ぐな私の視線を佐久間先生は真正面から受け止めながら応えます。
「何だ?」
「――彼は、何故女装しているのですか?」



 廊下を歩く私の耳を雨音だけが満たしていきます。
 太陽の光は雨雲によって閉ざされ、薄暗闇が世界を包み込んでいます。
 勿論、電灯が灯っているのですが、それでも太陽の光に敵うはずがありません。
 薄くて、しかし決して払いのけることの出来ない闇の中を私は歩いています。
 けれど、私は光を失った訳ではありません。
 いいや、光があろうとなかろうと関係ありません。
 もう私は狂ってしまっているのですから。
 恋という名の迷路の中を私はただひたすら壁があることも気にせずまっすぐと進むのみ。
 私には、それしかできません。
 進路指導室を出て、一旦生物室へ行った後、私は校内を歩き回っていました。
 佐久間先生の話を信じるなら、天戸くんはまだ校内にいるはずです。
 今日は雨が激しいから佐久間先生の車で家に帰る予定であり、故に先生が仕事を終えるまでは学校で時間を潰しているはずです。
 私はいつも彼に逃げられてばかりで、彼の行きそうな場所など分かりません。
 けれど、今日、この時ばかりは逃げられる訳にはいきませんでした。
 私は覚悟を示さなければならないのですから。



 やがて、私は音楽室の前で立ち止まりました。
 中からは調子っ外れの呑気な鼻歌が聞こえてきます。
 扉を開けると、そこに居たのは相変わらず女子生徒服に身を包んだ天戸くんでした。
 教室の傍らに置かれた椅子に座り、イヤホンから聞こえる音楽にあわせてリズムを刻んでいました。その右足はギブスが巻かれ、松葉杖が机に立てかけられています。彼は私に気づくと、イヤホンを取り、笑いかけます。
「――やあ、まだ帰ってなかったのかい」
 天戸くんはいつもの軽快さで告げます。その笑顔はとても眩しくて、きっと男子であっても彼の笑顔を見れば恋に落ちるに違いありません。
 ――ああもう、私はこんなにもドキドキしているというのに、彼は何の反応も示さないなんて相変わらず卑怯すぎます。
 先生が諦めろ、と言うのも頷ける話です。
 ――けれど、だからといって引き下がる訳にはいきません。
「ええ、あなたを探していましたから」
「……?」
 私は教室を見回し、他に誰もいないことを確認し、教室の扉を閉めました。
 薄暗い部屋に、雨音が響き、それがより一層静けさを感じさせます。
「教室の使用許可は届け出てるんですか?」
「なんで? ここは鍵も閉まってなかったし、誰も使ってなかったよ? 暇つぶしに部屋を借りるくらいいいじゃない」
「音楽室には様々な教材があります。勝手に持ち出されたり盗まれてはいけないので、使用には常に先生の許可を必要とします」
「相変わらず堅いね。別に、それくらいいいじゃない。何も盗まないし、きっと誰も見てないよ」
「見てないからこそです。それに、神はいつだってすべてを見ています。悪いことをすればそれはいずれ自らの元へと返ってきますよ」
 天戸くんは私の言葉に肩をすくめます。
「神様ね。そんなの本当にいるのかな?」
 素っ気ないその言葉に私は少なからず驚きます。彼は神の子を目指して父親に偏った教育を受けたはずです。その彼が神を否定するなんてどういうことなのでしょうか。
「ご自身のお父様には神について教えられなかったのですか?」
 無論、聖職者の子供だからと言ってその宗教に染まるとは限らないと言うことくらい私にも分かっています。たとえば、象子は牧師の娘ですが、洗礼を受けてないし、特に神を信じていません。クリスマスを楽しむけれど、初詣もするし、食事の時に「いただきます」と言うごく一般的な日本人です。
 けれど、彼をこれほどまでに偏った人間に育てた聖職者が、神に対する信仰をすり込まない、あるいはすり込むことができないというのは信じられません。
「特に。そう言う概念がある、と言うことしか聞いてないね。
 自分の口からは、神について語ることは憚られる、とか言ってたかな。
 でも、生きていればいずれ神の存在を感じることがあるだろう、とも言ってたかな」
 父親が語ったというその言葉に、彼の父親は本当に神のことを信じていたのだと私は確信しました。禁忌を犯した自分に語る資格はないが、世界には神がいるのは確かなのだから、それは言うまでもないことなのだと。
 私は幼い頃からお父様やお母様の薫陶を受け、神を信じて参りました。けれども、恥ずかしながら神を感じたことは一度としてありません。それは私の信心が足りないからなのか、それとも、未熟だからなのかは分かりません。私の知る神父様が言うには、神を本当に感じ取れる人は多くの信者の中でもごく僅かだと言っておりました。
 けれども、天戸くんの父親は息子が神を感じ取れることを信じたのでしょう。それは彼の狂気のなせる業だったのか、はたまた愛情故のものだったのか。
「キミは神を信じているの?」
 ――何を今更、と思いつつも私はどきりとしました。彼と出会ってから、私は幾度もの失敗を繰り返し、彼の生い立ちを知ってからはその信仰がぐらつきつつあります。
 世界はこんなにも悲劇に満ちていて、人はこんなにも脆いのです。神のその実在を証明しようにも、私は神のその確かな存在を感じたことはありません。
 ――けれど。
「はい、信じています」
 私は胸を張って答えます。
「どうして?」
「世界には希望が満ちている、と私は信じているからです」
 天戸くんは首を傾げます。
「どういうこと?」
「目に見えないモノを信じると言うこと。
 確かではない、見たこともないことを信じること。
 それは、未来を信じることにも通じます。
 私は神を信じています。見えない何かを信じる心があります。だからきっと、目に見えない不確かな明日は今よりも素晴らしい日が待っていると信じることができます」
 天戸くんはしばらく考え込んでいましたが、やがて大きく肩をすくめます。
「よく分からないや」
 彼の言葉に私も笑顔で返します。
「ええ、実は私もよく分かっていません」
 ですが、私が神を信じている――それだけは確かです」
「なにそれ? 無茶苦茶だね」
「あなた程ではありませんよ」
 再び、雨音が教室の沈黙を満たします。
 私にとっては彼ほど無茶苦茶で訳の分からない存在は居ません。その生い立ちを教えられたからと言って、じゃあなんでこんな風に育ってしまったのだろう、と疑問しか浮かびません。
 けれど、それで構わないのです。世界は不思議に満ちている。それは、きっと神がもたらした福音に違いありません。彼がたとえ歪んでいるのだとしても、私はそんな歪んだ彼を好きになってしまったのですから。それを無理に否定しても無駄です。
 ――本来ならば、ですが。
 しかし、私は彼に恋をしてしまったのです。
「……そう言えば、ボクを探してたみたいだけど?」
 彼の言葉に私は頷き、一歩前へ。
「ええ、伝えたいことがあります」
 言いながら、二歩。三歩。
 そこで立ち止まって、息を吸います。
 彼との距離は私の歩幅で五歩分。近いようで遠い距離。
 耳朶を打つ雨音を破るように、言葉を吐きます。
「私は、あなたのことが好きです」
 彼の目を見て、はっきりと伝えます。
 それを受けて彼はにこりと笑いながら、言います。
「うん、知ってる」
 前に聞いたからね、と彼はいつもの調子です。
「ボクも最近のキミは好きだよ」
 と、天使のような微笑みを私に向けてきます。それはとても魅力的で、見る者すべてが恋に落ちそうな無垢な笑み。
 しかし、私は首を横に振ります。
「――違うのです」
 私は目をつむり、首を振ります。
「――違うのですよ」
 ――ああ、神よ、愚かな私をお許しください。私は傲慢な人間です。
 私が欲しいのは、天使の加護や福音などではないのです。
「違うって、何が?」
 無垢な少年は首を傾げ、きょとんとします。ああ聖なるかな。彼はこんなにも汚れない存在です。歪んでいるとしても、無垢なことに変わりありません。エデンの園で知恵の林檎を食べなかったアダムはこのような存在だったのかもしれません。
 けれど、私が欲するのは、知恵に汚れたアダムであり、蛇にそそのかされ、楽園を追い出された人間なのです。
 人を救う天使のような彼に恋をしながら、彼が天使のごとき存在であることを愛しながら、それでも――自分を愛してくれる人間を求めてしまうのです。
「私の『恋愛』(すき)と、あなたの『隣人愛』(すき)は違うのです」
 雨風は勢いを増し、がたがたと窓を揺らします。
 はたして、窓を叩くのは本当に雨だけなのでしょうか。もしかすれば、地上に舞い降りた天使たる彼を誘惑する私を止めるべく、他の天使達が窓を叩いているのかもしれません。
 けれど、私は止まることができません。
「何が違うの?」
 問う、彼に私は聞き返します。
「あなたは佐久間先生が好きですか?」
「好きだよ」
 彼の即答に私は頷きます。
「私とどっちの方が好きですか?」
「どっちも」
 迷いのない彼の回答に私は首を振ります。
「それでは駄目なんです。
 私は、人類の、他の誰よりもあなたが好きです。
 そして、あなたにとって、私もそうであって欲しい」
 彼は眉をひそめます。
「差別はいけないよ」
「差別ではありません。恋とは、私の愛はそういうものなのです」
 聡明な彼は、おそらく佐久間先生の奥様から受けたカウンセリングの内容と照らし合わせて私の言っていることを考えているのでしょう。腕を組み、彼には珍しくうんうんと唸りながら考え込みます。
 でも、そうしているうちはおそらく一生たどり着けないのでしょう。
「こういうことは考えてしまった時点で負けですよ。
 考えるんじゃなくて、感じるモノです」
 ――と、栗栖ちゃんも言ってました。
「……分からないね」
「そうですか」
 雨音が、再び部屋を満たします。
 分かっていたことです。佐久間先生やその奥様が苦心してもできなかったことを私がそうやすやすとできるはずがありません。しかも、その奥様はカウンセラーでいらっしゃるのであれば、素人が並大抵のことで彼の性欲を戻せるはずがありません。
 ――でも、まだ試していないことがあります。
「すいません、私がいいと言うまで窓の外を向いていてくれませんか?」
「別にいいよ」
 唐突な言葉にも関わらず、彼はあっさりと私に背を向けてくれます。
「…………」
 私はこれから行うことに緊張に息を飲みます。
「いいですか、絶対にこっちを見てはいけませんよ」
「うん、分かったから」
 私のかたい声に、天戸くんはあくまで自然体です。
 私は息を吐くと彼に背を向けました。
 そして、持ってきた荷物を近くの机の上に置きます。
 私は胸元のリボンを外し、そっと別の机へ。さらにスカートを外し、順番に脱いでいきます。
 雨音に紛れて衣擦れの音が教室にかすかに聞こえます。彼にも聞こえているでしょうか。
 ――ああ、私は何をやっているのでしょう。
 背中のすぐ後ろには性欲を失っているとはいえ、年頃の男の子がいるのに。なんともはしない。
 あるいは、もしかしたら彼は実はこっそり振り向いてじっとこちらを見ているかもしれません。……だとしても、私は怖くて振り向けません。
 心臓が高鳴るどころか暴走して、押しつぶされてしまいそうです。それらを私は必死でおさえて、服を脱いでいきます。
 そして――。
「お待たせしました。こちらを見てください」



 佐久間先生によれば、彼が女装しているのは、日本に帰国した時にそれを望んだからだそうです。曰く、男子の服装よりも女子のバリエーションが豊富で、着てみたいと思う服が多いから、とのこと。そしてなにより、自分によく似合っているから、と。
 私見ですが、彼が女装するのは、彼の女性に対する興味が僅かながらも残っているからだと思います。
 彼は女性そのものには興味を抱かなかったけれど、女性の服には興味を抱いた。それは彼に残された性欲の欠片ではないかと。彼がその女性用の服装を身につけるのは、自分の性欲と装飾欲が混同しているのではないかと。
 とはいえ、彼自身は依然として服装に興味は抱くものの、女性そのものには全く興味を抱かなかったそうです。
 では、性同一性障害なのか。彼自身の精神的な性別は女であり、男性に惚れるのか。しかし、彼はその見た目から、校内の幾人かの男性からも告白を受けたそうですが、いずれも断っているそうです。佐久間先生の奥様が行うカウンセリングでよく告白されることについて冗談めかして喋っているのでこれも間違いないとのこと。
 とはいえ、男性服のかっこよさには何度か言及しているそうです。
 人は見た目ではない、と言います。しかし、見た目も重要な判断要素の一つと言えるでしょう。自然界において、幾つもの動物が見た目を基準に交尾相手を決めます。多くの昆虫は体の大きなものが交尾相手としてよいとされます。孔雀であれば、背中の羽が大きければ大きいほどセックスアピールとなります。
 では、人間はどうでしょうか。日本の女性ならば、小柄で、顔が可愛くて小さく、胸やお尻の大きな子がセックスアピールとして有効とされます。俗にロリ巨乳と呼ばれる栗栖ちゃんが男子に人気があるのも頷ける話です。
 けれど、天戸くんはそんな栗栖ちゃんに対して特に興奮を覚えたりしていませんでした。実に自然体でした。
 ところが、初めて会った時から、天戸くんはなんとはなしに私のことを気に入っていると言っていました。何故でしょうか。
 もしも、の話ですが。彼のセックスアピールに対する認識が狂わされているのだとしたら? 
 彼の母親は誰もが認める美少女だったそうです。ゆえに、彼の父親は神に捧げた心を惑わせ、一夜の過ちを犯してしまった。おそらく、小柄で、顔が可愛くて小さく、胸やお尻の大きな人だったのではないでしょうか。そんな同じ失敗を繰り返さぬようにするにはどうすればいいのか。
「……その格好は?」
 着替えた私の姿を見た瞬間、彼は頬を赤らめ、目が泳ぎ始めていました。いつも自然体の彼にはありえない、挙動不審な態度です。
 そんな彼を私は純粋に可愛いと思いました。なるほど、人が人を好きになると、こんなにも――。私も何度か知り合いがこんな状態になるのを見たことがあります。その時はなんでこんなに挙動不審になるのか、と思っていましたが、自分が経験した今となってはよく分かります。人を好きになってしまったら、きっとそれだけで頭がいっぱいになって、何も考えられなくなります。
「どう? 似合うでしょうか?」
「……い、いいんじゃないかな?」
 私が笑いかけると、彼は顔を真っ赤にしながら目線を逸らしました。その仕草は本当に年相応の女の子のようです。
 ――ああ、やはりそうなのですね。
 おそらくは、彼は性欲を失っていないのです。そして、同性愛者でもありません。彼はどうやら、セックスアピールに対する認識をなんらかの方法によってずらされていたようです。
 その証拠に――男装をした私にこんなにもときめいてくれています。
 そう、私はさきほど持ってきた荷物――男子生徒用の制服に着替えて彼の前に立っているのでした。
 私は、日本人にしては背の高い父とロシア人の母の血を受け継いでおり、女性にしてはかなり背の高い方です。芸能人で言えば和田アキ子さんよりもやや背が高く、体格もがっしりしています。身長のせいか胸はやや控えめで、顔もあまり小さいとは言えません。
 私の親友である象子もボーイッシュな感じで宝塚歌劇団で男役をはれそうだ、などと言われますが、実は私自身も同じ事を何度も言われたことがあります。
 けれど、彼はあくまで私を気に入ってる止まりでした。それはきっと、女性の格好をしていたからに違いありません。彼は、男装のよく似合う女性をセックスアピールの対象としていたのですから。
 ――ふふふ、象子も男装をしていれば誘惑をできたかもしれないのに。
 思わず笑みが浮かびます。きっと、彼女は天戸くんを誘惑するためになれない化粧を施して女の子らしい格好で誘惑したのでしょう。しかし、結果は惨敗。最後は服すら脱いでアピールしたのけれど、無駄に終わってしまった。
 ――今度ばかりは父と母に感謝せねばならないようですね。
 私はあまり日本人女性らしくないこの大柄な肉体を常々悩んでいましたが――、きっとこの体型は彼と出会うために用意されたのでしょう。
「ありがとうございます」
 私は礼を述べながら、一歩前に出ます。すると彼はびくりとして思わず後ろにさがります。私は構わず距離を詰めました。すると彼は後ずさりますが、壁にぶつかり、それ以上の逃げ場を失います。私は内心苦笑します。これでは栗栖ちゃんが勧めてくる少女漫画のようです。
 小柄な彼を抱き寄せ、言います。
「……私は、あなたのことが好きです。あなたはどうでしょうか?」
「ボクは……」
 きっと私は卑怯なことをしています。
 彼は初めて会った、自分好みの女性を前にして混乱しているに過ぎないのでしょう。本当に私のことが好きなのかどうか分かりません。
 けれど、これから先、彼が他の男装の麗人に惚れてしまう可能性は充分にあります。もしかすると、男装している女性なら誰でもいいのかもしれません。他の女性に取られてしまうくらいならば――。
 私は気がつけば彼の唇を奪っていました。
 普段ならばはしたない――と思っていたかもしれません。けれど、男装をしているせいか、不思議と気が大きくなり、大胆な行動に出ることができました。
 いいえ、この時私はきっと、一人の男性になっていたのかもしれません。
 私達がキスをする間、雨音が一層大きくなった気がしました。
 けれど、いつの間にかそんな雨音も聞こえなくなり、私たちはただ一つとなって互いの感触だけを感じあいました。
 やがて。
「……こういうことをして神様に怒られないの?」
 唇を話すと、頬を赤らめながら天戸くんが聞いてきます。
「そうですね……」
 私は微笑みながら、そっと唇に指を当てます。
「神様には内緒にしておきましょう」
 ついさっきまで神はすべてを見通すなどと言っていたのに我ながらいい加減な発言です。男装をしているせいか、いつも以上に強気な態度がとれてしまいます。これはこれではまってしまうかもしれません。
「……う、うん」
 と彼は焼却的に頷きます。その仕草は本当に女の子のようです。思わず抱きしめたくなりましたが、自重しました。やりすぎはよくありません。先ほどから私はどうも調子に乗っています。
「改めて言います、私はあなたが好きです。あなたはどうでしょう?」
 先ほどとは打って変わり、天戸くんは戸惑い、返事に窮します。
 目を泳がせ、迷いに迷った後、ぽつりと呟きました。
「……分かんないよ」
 頬が緩むのを自覚しました。
「それで、いいんですよ」
 私は彼の頭を撫で、言います。
「これから、じっくり考えていきましょう」
 私は体を離し、彼に背を向けました。
 種は蒔きました。これが彼の人を好きになると言う気持ちの萌芽になれば、と願うばかりです。
 ――まさか、本当に成功するなんて思いませんでしたが。
 佐久間先生の奥方はこの方法を思いつかなかったのでしょうか。それとも、思いついたとしても「男装の女子をぶつければいい」なんて馬鹿馬鹿しいことを実行しようとしなかったのでしょうか。あるいは――。
 ――神の思し召し、と言うことでしょうか。
 けれど、男装すればいいなんて回答はあまりにも邪道です。教会の教えの通り、節制を守っていれば一生辿り着かない回答でしょう。
 果たしてこのような結末でよかったのでしょうか。
 本当は私は悪魔のささやきに屈してしまったのではないでしょうか。
 私の想いが本物であることは疑うつもりはありません。たとえ、神の意に背くものであっても、今更撤回するつもりはありません。
 でも、本当にこれでよかったのでしょうか。
 ――ああ、神よ。

「あっ」

 私の背後で天戸くんが呆気にとられた声をあげます。
「ねえねえ、見てみなよっ!」
 天戸くんの声につられて私は振り向き、窓の外へ視線を向けます。
 そして、声を失いました。
 なんということでしょうか。
 そこにあったのは、見たこともない、空を埋め尽くすような巨大な虹の姿でした。
 雨はいつの間にかやんでいました。
 雨上がりに差し込んだ太陽の光が虹を生み出すのは決して不思議なことではありません。
 けれど、なんという大きさでしょうか。
 なんという美しさでしょうか。
 七色の光が天上を貫かんばかりに輝いています。
 その光景はあまりにも現実離れした――しかし確かな世界の真実。
 人の思惑や常識などを遙かに超えた神の御業がそこにありました。
 気がつけば私は跪き、十字を切っていました。
「……確かにっ(エイメン)!」
 私の行為が正しかったのかも分かりません。
 これから私たちがどうなるのかは分かりません。
 ひょっとしたら、私は取り返しのつかない過ちを犯しているのかもしれません。
 けれど――。
「ああ(オー)、聖なるかな(ハレルヤ)」
 神は確かにいる。
 遙かな高みにて私たちを見守ってくれている。
 そう信じることができます。
 世界はこんなにも輝きに満ちているのです。
 こんなにも世界は美しく素晴らしい。
 そうであるのならば、きっと神は実在する。
 ならば、私は胸を張って生きていくだけです。
 世界のどこかで見守っている神に対して、私なりの、私らしい生き様を示すこととしましょう。
「……高山さん?」
 突然十字を切り、祈りだした私を天戸くんが目を白黒させながら言ってきます。
「ああ、失礼しました。あと、私のことは祈鈴と呼んでください」
 立ち上がり、私は応えます。
「そう? じゃあボクのことも游真でいいよ」
「分かりました。よろしくお願いします、游真くん」
 私が微笑むと、彼は頬を赤らめ、ゆっくりと頷きました。
 こうして、私たちの恋はやっと、始まりを迎えたのでした。

終章

 秋の晴れ空が視界一杯に広がっていました。
 世界のすべてが輝きに満ちていました。
 朝です。
 何もかもが変わっていました。
 いいえ、違います。
 変わったのは私。
 游真くんへ再度の告白をし、一夜明けた朝。
 私の感じる世界は見違えたように輝いて見えました。
 私は何故、今まで気付かなかったのでしょうか。世界がこんなにも輝きに満ちて、美しいことを。
 あの巨大な虹だけではありません。
 自分の部屋が、住む屋敷が、街が、――視界に映るすべてが私の心を躍らせ、ときめかせます。
 朝の祈りを済ませ、お父様と食事をします。
 私の変化に気付いたのか、お父様は「何かいいことでもあったのかい?」と聞いてくれました。私はもちろん「えええ、とても」と答えました。しかし、理由については秘密であると伝えるとお父様はとても寂しげに肩を落としました。
 まさか、そこまで落胆するとは思ってなかったので慌てて「そのうちご報告申し上げます」と伝えると「絶対だな? 本当だな? 約束だからな?」と再三大人げない確認を繰り返した後に出勤していかれました。
 まさかお父様にあのような面があるとはこれまた新発見です。
 そして、電車に乗り込み、いつもの車両で栗栖ちゃんと合流します。
 喜色満面な私の顔を見て栗栖ちゃんは呆れた顔で言いました。
「いやいや、どう考えてもそんな幸せに満ちた顔をするのは早いよ。正直、コスプレ会場に彼を連れて行ったら卒倒しちゃうんじゃない?」
 彼女には佐久間先生からの話は伏せているものの、彼へ告白した事の子細を昨晩のうちに電話で話しています。
 そう、問題は山積み。
 分かったことは二つだけ。游真くんの性欲が枯渇していないこと。そして、男装女子にしか反応しないこと。
 これからそれが治るか分からないし、彼と運命を共にするつもりならばそれこそ一生男装で生きていく覚悟を持たなければいけないでしょう。
 ――後、コスプレ会場とはなんでしょうか? まあそれは後で聞くとしましょう。
「でも、希望はあります。私は、確かに神が居ると確信できましたから」
「話に出てきた昨日の虹? 私の家からは見えなかったけど? なにかの見間違いじゃない? ていうか、虹があったからといって神様がいるとは限らないじゃない」
 確かに信仰心のない方にはそう思えるでしょう。それこそ、過去の聖人が起こした奇蹟もすべては偶然の産物で、それを目撃した人が「こんなことできるのは神様くらいしかない。だから、神様がいるに違いない」と思っただけかもしれません。科学的な視点からすれば、それらはただの勘違いでしかないのでしょう。
「私がそうあれかし、と願い、信じた結果です。だから、私はそれを信じるだけです」
「……まあ、本人がいいならそれでいいけどね」
 自称恋の伝道師たる彼女はため息をついてそれ以上何も言ってきませんでした。
 そして、電車を降り、改札口を出ると。
「おはよう、二人とも」
 そこにいたのは私服姿の象子でした。
 私と栗栖ちゃんは顔を見合わせます。
「象子! 体はもういいの?」
「いや、これから自宅へ帰る途中。入院から自宅療養に切り替わったんでね。
 せっかくだから、祈鈴の顔を見てから帰ろうかなって」
「そんな……二日前にも見舞いに行ったばかりじゃない。無理しないでよ」
 象子の言葉に私は呆れた声をあげます。自宅療養に切り替わるからといって安静にしているべきなのには変わりありません。というか、本来であればまだ入院治療のはずです。彼女が親に無理を言って窮屈な病院から出るようにワガママを言ったとしか思えません。彼女の母親はそれなりに裕福なのです。
「いいや、どうしても言いたいことがあってね」
 彼女はそう言うと、私に向き直ります。
「あたしも諦めない」
 それだけ言うと、彼女は私が呆然としている間に去っていきました。
「えっと……それはどういう?」
「ふふふ、祈鈴ちゃんもモテモテよねぇ」
 栗栖ちゃんの言葉に私はため息をつきました。
「なるほど、栗栖ちゃん、また余計なことを象子に吹き込んだのね?」
「さぁて、なんのことやら」
 私はため息をつきます。
「まあいいわ。あなたは放っておいても、そのうち神罰が下るでしょう」
 彼女は恋する者の味方。だとするなら、私の味方でもあれば、象子の味方でもあるのでしょう。なかなかいい性格をしてます。
「酷いわ。私みたいにいい子はあんまいないよ?」
「主に恋人にすぐ振られる神罰が落ちるわ」
「がーん、それはひどい!」
 そんなことを言ってるうちに私達は学校に辿り着きます。
 校門前で游真くんと会いました。
 彼は私を見るなりややがっかりした顔をします。
「おはよう。今日は普通の格好だね」
「当たり前です。私は女子ですからね」
 そう、私はいつも通りの女子生徒用の制服です。いくら何でも、さすがに毎日男装する勇気は私にありませんでした。
「……もう、しないの?」
「学校の外でなら。今度映画を一緒に見に行きましょう。
 その時は男装してあげましょう」
 私の言葉に彼の顔はぱぁっと明るくなります。
「ほんとに? 約束だよ」
「ええ、約束です」
 私が頷くと彼は何かを想像したのか、彼は顔を真っ赤にした後、挨拶もそぞろに、そそくさとその場から立ち去りました。
「……え? 男装で釣ってるの?」
「栗栖ちゃん。人聞きの悪いこと言わないで」
 ああいうのはたまにやるからいいのです。ありがたみがなくなっては意味がありません。
 ――それに、なんのかんので男装は楽しいですからね。ちょっと癖になりそうです。
 なので、それを抑えるためにも乱用は控えるつもりです。
「……そんなんで大丈夫なの?」
 栗栖ちゃんの言葉に私は頷きます。
「きっと大丈夫」
 人を好きになるということは、とても素晴らしいことです。
 それだけで目に見える世界が輝いて見えます。
 この通い慣れた校舎ですら、今の私にはとても素敵な場所にしか見えません。
 こうした世界の見え方も一時的なものでしかないかもしれません。しばらくすればまた慣れてくるかもしれません。
 けれど、私の胸の奥には、誰にも犯せない強い炎があります。
 彼を好きだという気持ちが溢れんばかりに燃えています。
 この気持ちがあれば、きっとなんとかなるはず。
 それを神に証明するために――私はこれからを生きていくのです。
「さぁ、栗栖ちゃん行きましょう。あんまりモタモタしていると遅刻するわ」
 そう言って、私はまた一歩前へと踏み出したのでした。



 あー、やっと書き終わった。
 すごい難産でした。
 なんか初期プロットと全然違うところに着地しましたけど……まあいいや!!!
 寝ます。