タイムリーな話

 前に進む宣言しながら自分だけ何もしてないのがどうもアレな気がしたので自粛していましたが、作品のテーマや哲学が色々なエントリで語られているのに触発を受け、エントリを書くことにしました。
 ここ最近、前から思いついていた最低野郎のコメディを考える一方で、イヴノイド(仮)でのテーマについてもどうも気になって、それでなんとか一つ抜け道みたいなのが見つかったような感じ。
 それを充実させる上で、ちょっと一人で考えていたいなということもあってエントリを書かなかった(ついでに学校の友人始めあらゆるネットでの人とのつながりを一旦断った)のだけれど、ただ今回は個人的な大発見があったので、以下。文学文学と繰り返してますが、あくまでライトノベルを書く上での話です。

 作品のテーマ。それは一体どう作品に影響して、どう読者に受容されるのだろう。少なくとも僕は、ストーリーの要素を使って数学の証明のように論理を進めていき、最終的にある命題みたいなのを打ち出して証明終わりとするようなものはしないつもりではある。
 というのも、それでは真実に近づくどころか遠ざかってしまうと思うからだ。そう感じるのは僕が人間の論理に対してかなり懐疑的であるからだ。
 複雑系とかカオス理論とかいう言葉がある。それと関係ないかもしれないが、例えば真理に対して行きつくために論理を展開して、結論まで構築し終えたとしよう。その時点で、「あなたはその結論を揺るがす他の要素や論理の存在はなくて、自分の論理が関係する事柄すべてを包括していて完璧だと言えますか」と聞かれて、はいと答え、さらにそれを証明することは不可能だ。
 というか、作品のテーマについての論理を組み立ていって、そういう次元で話ができるほどに到達できるだろうか。そんなレベルの議論をできるのはプロの哲学者だし、それを万が一できたとしても作品の中で完結できるとは思わない。哲学者が一つのテーマについて語った時、一体どれほどの分厚さの本を執筆しなければいけないかを考えればよくわかる。しかも、その内容は一字一句残らず論理展開だ。もしそれを小説に導入したとして、ちゃんとした手順を踏んだなら、どれほどの量になってしまうのか。つまり、普通に小説の中で、上に書いたように証明終わりしても、その経過での密度はスカスカなのに違いないのだ。
 そして遠ざかっていくというのは、要するにそういう見落としを重ねていくごとにだんだんと論理は曲がっていって、最終的には、「真実」と言えるほどの正当性とは程遠いものになるからだ。いや、それ以前に、見落としを横においておいても、認識している要素についてだけでも正しい論理を導きだせるかどうかという問題はあるけれど(そういえば数学は、その正当性を数学自身によって証明することはできないと言われている)。

 では僕は小説においてテーマを考えることは無意味だというつもりだろうか。もちろんそんなことはしない。最近僕は純文学作品の魅力と「再会」した。おそらく、僕が思うには真実へ向かうテーマ性という意味で一番濃厚なのは純文学だ(少なくとも数十年前まではそうだったと思う)。
 真実へ近づくための一つの手段に、僕がひとつ考えているのは感性である。すくなくとも、自分が感じていることは自分という一人の人間、の性質によるものだ。自分の外部にあるものを人間は正しく認識できないのかもしれない。しかし、自分という人間そのものが背景としてそこにある。
 自分自身が人間であるからこそ、物事の考え方や感じ方にある性質が生じる。それが人間らしさだと思うのだ。もちろん、自分にだって個性はあって他の人とは違う。けれど、少なくとも自分という一人の人間についてはありのままに描こうとすることはできる。また、それに、自分と他の人を比べたとしても、根本的な「人間である」という次元では異なる点よりも同じ点の方が多いのではないだろうか。
 だからこそ、自分が感じた根源的な何かをそのまま暗喩的に投影するのが僕は一つの方法だと思う。もちろん、完全な「ありのまま」とは行かないには違いないだろう。夢が無意識をそのまま映し出すのではなくて、関係なさそうなものの形を借りて婉曲に表現されるのと同じように。でも、その形のゆがみ方、も含めて人間らしさだと思う。つまり、真実がそこにあるのだ(=自分が感じたものとその認識は自分自身という人間をコンテクスト(背景)に持つ)。
 そういう意味では確かに上に書いたような数学の証明のようなものもある意味で自分という人間性を反映しているには違いない。でもそんなことをするよりも、素直に感性をそのまま反映したほうがもっと密度が濃いものを吐き出せると思うのだ。

 では次の話、読者はそれをどう受け止めるのか。
 作家がそういうものを作品に投影したものを、まあ某アニメの言葉を借りて「人の意志が込められている」ものとしよう。正直な話、そういうのが真摯に、あるいは順当に広く解釈されているとはあんまり思わない。ネット上の言説を見る限りはそう思う。
 ただ、作品へ素直に意志を込めているかは知らないが、何かを強烈に感じているには間違いないと少なくとも思わせる作家である西尾維新がウケていたりするあたり、解釈はされなくとも、その強烈なものをなんとなく認識してシンクロできる読者は少なくないというのは間違いないだろう(西尾維新の表現それ自体を支持するかどうかはこの際横へ置いておく)。イリヤとか文学少女なんかもその例なのかもしれない。
 ライトノベルのそういうサンプルを詳しく知らないのでまたしても申し訳ないことにアニメの話になってしまうけれども、僕がエヴァナデシコウテナがすごく好きなのはそういう理由だ。受け手の反応ということで言うならば、伏線・SF要素やストーリーや個性的なキャラクターを主な理由として支持されていたエヴァナデシコとは違って、感性という点でずば抜けていたウテナが大きな支持を受けたりしたことから、やはり受け手もそんなに無関心な受け取り方をするだけではないと思える。

 最後に、ライトノベルの最大の読者が思春期の少年少女であることについて。これは僕が今、作品を完成させたいとひどく焦っている理由でもある。とはいっても、ここまで長くこのエントリを書き連ねたうえで説明するのも野暮だと思う。要するに、思春期の少年少女は感受性が強いのだ。文庫版・蛇にピアスの巻末にある、この作品を芥川賞に強く推した選考委員の村上龍の解説を引用して終えることにする。ちょっと長いが、これまでの僕のエントリよりはよほど読みやすいと思うので、必要なところはできるだけ抜き出しておく(それでもだいぶ省いているので、気になる人は買うことをおすすめします)。
 ──小説家は年齢と経験を重ねるに従って情報・知識・技術を得ていくが、逆に失うものもある。現実とのヒリヒリ擦るような距離感だ(中略)わたしは、少年時代の生傷のようなヒリヒリした作品をいつも書きたいと思ってきたし、今もそう思っている。自分と外部の境界を際立たせるような子供のころの擦り傷、作品全体からそういう切実さが立ち上ってくるような小説を書きたいと思っている。だがそれでも十代の終わりや二十代にしか書けない小説というものはある。『蛇にピアス』はまさにそのような小説だった(中略)
 作者は最初の一行から、最後の一行に至るまで、嘘を書いていない。勘違いしないで欲しいが、嘘というのは虚構という意味ではない。この小説はほとんどが作者が紡ぎ出した虚構だと思う。作者は主人公ルイに寄り添いながら物語を織りなしていくわけだが、作者自身とルイとの関係性において切実さが常に保たれている。ルイはこんなことは言わないだろう、ルイはこのシーンではセックスしないだろう、ルイはこうなった後は食事できなくなるだろう、作者はそういうことを社会的な意識と本能的な感覚の境目で考えたり感じたりしながら、正確に書いていくのだが、不明なことは絶対に書いていない(中略)
 わたしたちは、言葉・理性・その他社会的なものを手に入れる過程で、それまでの本能的な感覚や感情を脳の表層の下の奥深いところに押し込むことになった。もちろんそれらは消えたわけではない(中略)文学は、物語の形を取り、物語の力を借りて、それらを一瞬露わにして、私たちに自由の意味を問う。金原ひとみは、十九歳にしか描けない方法と文体を駆使して、この作品で見事にそのことを示したのである──

追記:
 人間の論理の正しさを認めないというなら、お前は哲学の存在価値を否定するつもりか、と言われそうだが、そういうつもりはない。
 例えば僕は今ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」を読み始めたところだが、きっとあの発想も感性から来たものではないかと思うのだ。ショーペンハウアーがああいうことを考えたのも、それまでの哲学や世間の人々の世界に対する認識にどことなく違和感を覚えたからに違いない。それを元にショーペンハウアーが自分の納得する通りに論理を進めていったなら、それはそれでさっき書いたような様式で真実を表している(念のため言っておくが、論理ではなく感性のまま表現されることで真実を考える小説も同程度に僕は好きだ)。
 あらゆるものを疑ってかかったデカルトが論理を進めていった理由は、その論理の正当性にあるのではなく、真摯な姿勢を神が評価してくれると考えたから、と言われている。なぜ論理を構築するのか。その動機は明らかにしておいて損はないと思う。

さらに追記:
 そういうこともあって、イヴノイド(仮)のテーマは「言語と人間の精神の関係」じゃなくもっと漠然としたものになると思う。僕はもっと普遍的なレベルで人間を考えたい(言語も十分普遍的といえばそうだけれど)。
 ところで、我思う故に我ありとかいうあたり、デカルトもそこそこ健全な人だったのだろうと思ったりする。まあだからなんだって話だけれど……