携帯するセカイ

近況の報告についてはもう少しまとまってからさせてもらうとして、今日話題に挙げたいのは携帯電話のことです。
セカイ系と情報化社会って結構関係があるように思える。ネットワークという広い世界に、携帯電話を通じて個人がアクセスできるという図について。
それを考えた理由は、ライトノベルの主人公たちと重なる年代の、高校生としての生活の中で、結構周りの同級生の生活の中心の一つに携帯が据えられているというのを最近しみじみ感じたから。実は僕は携帯を持っていない。持っていたが、常に何者か(多分電話帳に入ってる人たち)に縛られているような気がして煩わしいので以前に解約している。
だからこそ、持っているのといないのとで、だいぶ生活の端々に差が生じることを余計に感じる。彼らは携帯で他人と常に、オンとオフの境目で繋がっている。着信音が鳴ればオンになり、会話やメールが終われば再び境目の状態に戻る。僕はこれを緊張だと思った。
さらに、携帯はネットワーク全体とも繋がっている。よく考えれば、これはたいそうなことだ。物理現実とは別の側面において、世界全体とゆるい接続を常に保っているのだから。
やはりセカイ系の特徴のひとつは、観念的に漠然と捉えられた世界が対象になっていることだ(このイメージを「セカイ」と呼ぶわけか)。その実体を持たない、本来切迫感のない世界が、身を切るような切実な問題として降りかかってくる。現実世界でこれに一番近いのはテレビや携帯、ネットをはじめとする情報化社会としての側面かなぁ?という。
しかもそれがお手軽で鞄の中に入っているという。まさしく、「セカイ」ならぬ「ケータイ」ですね。
このへんについて、意見を聞かせてほしいです。あるいは、参考になる文献の紹介でも嬉しいです。それにしても、実際の学生はあんなに携帯使ってるのに比べると、ライトノベルでは基本的にあんまり出てこないよなぁ……

追記:
いつだったか、読んだ本の紹介を希望する旨を書いたコメントを頂戴した(確かdeltamさんだった)、のに、今まで何も紹介してきませんでした。すみません。
色々悩んだのだけれど、一番面白かったのでこの一冊、柄谷行人氏の「意味という病」。評論ってこんなに面白いのかという感動がありました。
ラノベのラの字も出てこないような本ではあるけれど、セカイ系について考えていた当時の思考となぜかやたらシンクロしたのが印象に残っています。
内容は文芸評論です。僕は何の予備知識もなく読んで、知らない作家や作品のことが解説されていたのに、それでも著者の言いたいことがひしひしと伝わってきました(もっとも、章を一つ割いて解説していた「マクベス」は新潮文庫で後で買いましたが)。
東浩紀大塚英志では食い足りないという人におすすめ……って、そもそもライトノベルどころか二次元全般に関係のない本ですが。