大反省会

 書いている時は「なんてクソな文章を自分は書いているんだ……」と絶望し、書いていない時は「なんてクソな文章を書いてしまったんだ……」と絶望しているが、それらは無根拠なものであって客観的に見ればその前よりは上達した文章を書いたという結論に落ち着く。強がりっぽいけどね。
 改めて今自分の書いたものを見てみると、色々と見えてくるものはある。日産三十枚とか言っても、やっぱり書いている間はかなり悶絶しつつ転んでつっかえながら書いているわけで、その原因は執筆中にはよくわからない。今はわかる。
 じゃあその原因とは何か?大まかに言うと、二つだ。
①イメージ不足

  • Aプロットの要素について
  • B戦闘シーンについて

②文章技術不足

  • C戦闘シーンについて
  • Dデフォルメについて

・Aについて、これは起承転結の「承」に当たる部分、しかもやたら間延びしていた。これは仕方ない。考えていた枠内では何カ月考えても思いつかなかった。打開するような思い切った案がいるのだろう。
「何がその枠内を埋めるのに必要か?」と論理的に突き詰めることもできるが、キャラクターのイメージに繋がらないので却下。ストーリーの構成要素は「登場人物がそのキャラクター性を発揮できるような」ものを連ねることで作らなければこの作品のコンセプトが根本的に破綻するから。要するにこの作品でストーリーとはキャラクター性のデフォルメなのだろうか。

・B及びCについて。まあ能力バトルですが、前のエントリで書いたように僕はラノベにおける能力バトルってどんなものかあんまり知らない。少なくともちょっとだけ、書きたいイメージの感じとしては、恐ろしいものとして描写するということ。
 例えて言うなら何だろ?エヴァがロボットアニメじゃなく能力バトルだったとして、シンジ君の右手が初号機みたいに泡立って再生したり暴走したりするとでも言えばいいのか。
 とにかく必要なのは恐怖感と具体的イメージである。具体的イメージはまたインスピレーションなり元ネタになりそうなものを探すとして、恐怖感はどうするべきか。
 今手元に資料としておいてある「ラグナロク」「ソードアート・オンライン」は戦闘描写の質が高いことで有名だけれど、両方ともある種爽快なものとして描写してるし、うーんという感じ。まあモデルになる映像作品はいくらでもありそうだけど、小説がどう頑張っても地の文が人称つまり誰かしらの語りとしての性質を持つのに対して、映像は真逆の無機質さがあるから……漫画とか良いのかな?

・Dについて。今回文章の表現という点で失敗したのはおそらくCとDの二点だけだと思うが、この二つが相当に痛く、特にDはひどかった。やったことないどころか、ラノベで他にやってるのをほぼ知らないし(西尾維新は近いことをしているけどデフォルメ度はそこまで高くない)、てかラノベ以外でもほとんど似たものがない。
 いや、失敗というより試みることすらほぼできなかった。一部申し訳のようにやってみました的なところはあるけど、目標には程遠い。

・文章表現上のデフォルメについてもう少しはっきりさせる必要がある。前に述べたような、それこそキリスト教特有の厳かで清澄な雰囲気を喚起するシンボルとして十字架が働くなら、十字架がデフォルメされた表現である。
 個人的に近いと感じるものを挙げるなら、押井守さんの映画、特に攻殻機動隊の二作にそれが多い(雨の中を傘差して走る人、祭りで都市を闊歩する行列や炎の中で燃える人形)。

・臨場感ある描写が全くCにおいて成立しなかったのも問題だろう。これはいくつか他の本を参考にする。ハルヒの「憂鬱」「消失」、あと安部公房先生の「壁」もこの観点から改めて参考にしてみる。文体の特徴をパチる、ということは今まで幾度となくやったことで、練習の際はかならず何かをパチる。今回の執筆では、文学少女と「箱男」と「アマニタ・パンセリナ」「頭の中がカユいんだ」「死者の奢り」でそれをやった。

・ていうか、話題にも挙がったことだし久々に練習で何か書いてみようと思う。要するにテーマは「恐怖感と臨場感のある戦闘描写、デフォルメを多用」といったところだろうか。まだちゃんとデフォルメを試したことがないので上手くいくかわからないが、できるだけ盛大に試みてみようと思う。

追記:
 すごく気になるのだけれど、安部公房先生の小説ってラノベを普段読む人にはどう受容されるのだろう、ということ。
 僕が好きなのは「壁」「箱男」「カンガルー・ノート」の三冊。箱男はまず最初の十五ページの文章がとにかくすごくて、今回の執筆でもそこを重点的に意識した感じ。どこの本屋に行っても新潮文庫の棚に大概あるので、もし気が向いた方はパラっとめくってみてください。ぜひ感想とか聞きたいです。