「お前も丸くなったなぁ……」

アニメの「やはり俺の学園ラブコメは間違っている。」が個人的にグッと来たので、7巻まで出ている原作の小説を読んでみました。以下感想のようなもの。

蓋しこの作品はまことによくできた物語であり、アニメ化された話(6巻まで)といえどアニメをすでに見ている人間としても十二分に楽しめましたし、アニメ化されていない7巻もページをめくる手が止まりませんでした。率直に言って著者の人間心理への洞察の深さと人間の醜い部分を抉り出すような描写力には嫉妬さえ覚えました。

しかし、ちょっと気になる点が一点ほど。
この作品もラブコメの宿命通りヒロインたちはだんだんデレていきますし、主人公の比企谷八幡もまた彼女らに徐々にですが歩み寄っていき、当初のハードコアぼっちぶりにも陰りが見えてきます。八幡は、自分は今の自分を変えるつもりはないと事あるごとに述べているのですが、彼は確実に変化しているのです。これは、話の進み方としては胸がすくほどに健全で順当な進展、変化・成長です。実際、孤独を愛する主人公が人に心を開いたり、自己中な主人公が人のために戦うようになったり、臆病な主人公が勇気を出したりして変化・成長するというのは文句なしに健全で正統な進展であり、そういった変化は真っ当な成長です。逆に、主人公がいつまでたっても孤独気質を引きずっていたり、臆病、自己中なままで人格的な成長が見られなければ、あるいはヒロインがデレないままフィナーレを迎えるようでは、ストーリーを進めることを端っから放棄しているような日常系あるいはサザエさん時空の作品でもない限りは娯楽作品として成り立ちませんし、話としてもオチません。

しかし、この作品でのこうした順当な成長と展開に私はささやかなひっかかりを覚えるのです。
比喩的に言えば、昔一緒に馬鹿をしていた友達がいざしかるべき時期になるや髪を黒く染めてリクルートスーツに身を包んで就活に励んでいたり、所帯を持って真面目に働いていたりしているのを見たような、あるいは台詞で表現すれば、「お前も丸くなったなぁ……」というような感覚です。まあ、私だけなのかもしれませんが。
そしてふと自分は以前にもこんな感じを覚えたことを思い出しました。「鉄のラインバレル」の早瀬浩一です、そのアニメを見ていた時、私は主人公の浩一の調子に乗った無軌道で自己中な、痛々しくも痛快な中二病ぷっりが好きでこれこそが他の作品にないこの作品の味だと思っていたのですが、回を重ねるごとに(私の感想では)彼の自信過剰や唯我独尊ぶり、言動の痛さは鳴りを潜め、自分のためではなくみんなを守るために戦うありきたりな熱血正義漢に成り下がってしまい、「お前も丸くなったなぁ……」と呟いたものです。今回取り上げている「やはり俺の学園ラブコメは間違っている。」においても私は主人公八幡のぼっちにしかできない、考えらえない斜め45度の問題解消や彼のぼっちネタやそういったメンタリティを楽しんでいたのですが、彼もだんだん「丸く」なってきており、どうも浩一の二の舞になるのではないかとこっそり案じています(無論全ての受け手が私のような穿った解釈や楽しみ方をしているわけではないということは重々承知していますが)。
このように、順当な成長と相反する性質(主人公の性質にせよ、彼を取り巻く関係にせよ)や物語の進展がその作品の持ち味(控えめに言ってもそのように受け手が解釈する持ち味)である場合、その物語のオリジナリティや魅力と話の順当な進展や主人公の成長はトレードオフの関係になってしまいます。私自身これをどうすれば上手く捌けるのかに答えを出せてはいませんし、このエントリでは問いを投げかけるだけになってしまい、この文章はどうも座りの悪い文章になっていることでしょう。
以上、主人公のアイデンティティが順当な成長とトレードオフ関係になってしまうような作品を書いているため、「やはり俺の学園ラブコメは間違っている。」を読んでこんな風に思うところがあった次第です。