小説における自由とは何か。


 さて、小説執筆におけるプロットの重要性はわかった、ということにしよう。では、具体的にどうプロットを作っていけばいいのか。そこで悩んでいる海燕さんである。何か詳細かつ具体的な方法論はないのか。どうやらないようなのである。

 プロットという概念はもとは文学批評理論の一種であるロシア・フォルマリズムから出てきたものらしい。だからべつだん、「物語の設計図」を指しているわけではないのだが、面倒だからここでは「プロット=物語の設計図」という理解ですすめる。

 で、どうも現状では、そのプロットの作り方は各人各様、千差万別で、唯一の正しいやり方というものは存在しないらしいのだ。おそろしいことにプロ作家のなかには完全なアドリヴで最後まで書いちゃう人もけっこういるようだ(犯人を決めずに推理小説を書きはじめるひとすらいる!)。

 しかし、たとえばシナリオの書き方などというものはある程度方法論化がすすんでいるようで、世に大量にあふれるシナリオ作法の本を読めば、そこらへんのことは一応書いてある。「三幕構成」とか。

 が、どうなんだろう、小説を書く際にどのくらい使えるものなんだろうか。全く使えない、というひともいる。そもそも小説とは物語の良し悪しではないのだ、という考え方をするひとたちである。

 こういう考え方はある程度合理的なものだと思う。物語をさきへ読みすすめたいというパッションを掻き立てるだけなら小説でなくてもいいわけで、小説固有のおもしろさは別にある、と考えることはごく自然だ。が、ぼくはやはり物語が好きなので、ある程度は役立つのではないか、と考える(「小説固有のおもしろさ」も好きだが……)。

 ただ――やっぱりそれだけでは不十分だということもたしかだ。よくハリウッド映画ではどれも同じ方法論で作られており、だから似たり寄ったりだ、みたいなことをいうひとがいるけれど、でも、そのハリウッド映画でもやはり傑作シナリオと駄作シナリオはある。似たり寄ったりといわれはしても、歴史にのこるような名作は稀だ、といっていいだろう。

 どこで差が出るのか? きちんとマニュアルの内容こなすことは困難だということなのかもしれないし、やはりどうしてもマニュアル化されえない何かがあるのかもしれない。ぼくは映画にはくわしくないので何ともいえない。

 ただ、現実に傑作と駄作はある、ということは事実としていえるのである。ということは、いくら熱心にシナリオの方法論を学んでも、駄作しか書けないということはありえるということだ。

 思うに、物語のマニュアルとは、マニュアルからの自由を獲得するためにあるのではないだろうか。スクウェアなマニュアルを学ぶことによって、初めてマニュアルから逸脱せざるをえない自分の個性がわかるということがありえると思うのである。

 方法論から逸脱する個性的なやり方は、方法論があることによって初めて明確に意識されるということ。だから、とりあえず方法論を学ぶことは悪くないと思う。それに雁字搦めに縛られて、瑣末な細部ばかりを気にし、小説の本当のおもしろさを忘れ去っては本末転倒であるにしても。

 小説の本当の魅力は言語化できるテクニックにはないかもしれない。しかし、まさにそうだからこそ、その神秘的な何かを手にいれるためには、テクニックを磨く必要がある。

 既存の作品や方法論を無視したり、あるいは敵視したりすれば小説の自由を獲得できると考えるのは、粗暴な不良生徒みたいなものだ。「おれは自由だ!」と叫んでルールを無視しても、何ができるわけでもない。一方、ルールのなかで力を手にいれたものには遥かに巨大な自由がある。

 かれもときにはルールを破るかもしれない。しかし、それはルールを無視することしか知らない人間のルール違反とはわけが違う。かれはルールを熟知しているからこそ、「ルールに従う」こともできれば、「あえてルールを破る」こともできるのだ。これこそ本物の自由ではないか。

 などと思う、きょうこの頃。