ハルヒのプロットについて

哲学さんどころか北さんにも自論を否定されちゃったので、わざわざエントリにまとめて書きます。
まず、「ハルヒはよく構成され、計算された作品である」という部分は、哲学さん北さん共に主張されてますが、ここは私も同意します。というか、ハルヒほど文体からキャタクターから(ライトノベルとして)計算されつくした小説というのも珍しいです。
ですが、それはあくまで構成・アイデアであってプロットとはまるで別個の問題です。いや少し言い過ぎました。プロットとアイデアは不可分ですが、それでも本来は別に論じなければならない部分です。
また、不可分と書きましたが、アイデアとプロットが不可分であるからこそ、これを混同せず論じることの難しさがあるのです。ひいては、ハルヒの構成がいかに優れていようと、ハルヒが「プロットの無い」小説であるという自論は変わりません。
このハルヒの構造的な特徴については以前どっかで書いた記憶があるのですが、ハルヒが「まだ」9巻しか出ていない、というのがこの自説の補強要因です。あれほど筆力のある作家なら、20巻でも30巻でも書けるだろうに(公式アンソロみたいなのはゾロゾロ出てるのに)途中で止まってしまった、というか「分裂」を読んだとき「ここまでジャジーなことやっちゃって大丈夫なの?」と心配になったものですが、やはり大丈夫じゃなかったらしく、続刊までえらい期間が開く結果となりました。
話を戻すと、プロットとアイデアを切り離して考えない限り、実作としてプロットをものにするのは出来ないんじゃないか、と今は考えています。