プロット話、続き。


 「プロット」という言葉をめぐって混乱が生じているようですね。昨日、プロットとは元々ロシア・フォルマリズムの用語だと書きましたが、さらにさかのぼるとアリストテレスの『詩学』にもそれに相当する言葉が存在しているようです。

 しかしまあ、ここではそういう原義的な意味で使用されていないことはあきらかなので、各人がそれぞれ異なる使い方をして、それでたがいに言葉の意味が合わずに混乱が生じているのでしょう。

 とりあえずkaizenaiさんがいうプロットが何を指しているのかぼくにもわからないのだけれど、まあ、その作品が本当に「よく構成され、計算され」ていたならべつだんプロットがなくても問題ないのではないかという気はします。

 ぼくがいうところのプロットとはまさに「計算」であり「構成」であり、それを自分自身が把握しやすいよう文章化(もしくは図案化)したもののことです。

 ぼくはただ、あらかじめ「計算」し「構成」したうえで書くのと、そうでないのとでは、当然できあがる作品に差が生じるはずだろうということをいいたいだけで、ぼくがいうところのプロットにはそれ以上の意味はありません。

 まあ、北さんが書いているように、ここらへんの話は結局「ひとそれぞれ」でしかないんですよね。結果として傑作が仕上がればどんな方法論でも問題ないし、逆に、駄作しか仕上がらないようなら、どれほど立派な方法論を用いていても意味がない。「結果がすべて」。それは間違いない。

 ただ、ここにいるひとたちは現状結果を出せていないわけだから、いまの方法論を改良していく必要がある。それもたしか。その「方法論の改良」の努力をしないで、いくつ新作を書きあげてもあまり成長しないと思うんですよね。

 で、けっきょく、各人が各人なりの方法論を見つけていくしかないという話になるんだけれど、それはやっぱり雲をつかむような話で――だから、何かしら基準がほしい、と思う。北極星のように絶対的な指標はありえないにしても、何か少しは参考になる情報はないのか。そういう話をしたい。

 そうして、もちろん、それはあるわけです。先人たちがのこしてくれたさまざまな物語の方法論がそれです。いま、書店を覗けばたくさんその手の本が売られている。それらを読めばすぐに名作が書けるというわけにはむろんいかないにせよ、まあ、読まないよりは良いのでないでしょうか。どうかな。読まないほうがいいかもしれないけれど。

 自分なりの方法論は自分で見つけるしかないとしても、「先にこの道を通ったひとがいる」ということがわかるのは心強いものだと思います。あと、自分の執筆過程からあいまいな部分を減らすために役立つかもしれない。

 小説を書く際の最大のタブーは「ただ何となく」書くことだと思う。どう書くにせよ、自分が何を書きたいのか、そうして書こうとしているのか、なるべく意識化、言語化してから書くべきなんじゃないかな。むろん、その行為は抽象的なレベルでの自由な思考を阻害する可能性があるわけで、むずかしいところではありますが……。

 ただ、ぼくなどはもう、自分が書きたいものをひとつひとつ言語化してから書かないとめちゃくちゃなものしか仕上がらないという気がします。それは必ずしも「計算」ですべて書けるということじゃなく、こういう物語を書きたいという「欲望」に「計算」という手綱を付けていないとどこへ暴走していくかわかったものじゃない、ということです。

 書きたい話のおぼろなイメージはあるので、あとはそれを構築していくための技術がほしいんですよね。ぼくの場合、必ずしもひとの賞賛を得られなくてもかまわない。自己満足さえできれば良いのだけれど。それも楽じゃないからなあ。理想は遠い。