『非武装カンパニー』推敲完了

恐ろしい程の時間と労力をかけて推敲が終わった。
というか、半分以上の文章を完全に書き直している。
40ページ分ほどを選択して、デリートキーを押す瞬間のやるせなさが尋常じゃなかった……。お、俺の一週間分の努力が1秒で消えていく……。
しかし、きっとより良いものになったはず。せっかくなので、upしておきます。
ご意見ご感想頂けるとありがたいです。

武装カンパニー

プロローグ

 警報音がけたたましく鳴っている。背後から、いくつもの足音が追いかけてくる。
 息が、足りない。体力がとうに限界を超え、あえぐような呼吸しかできない。
 それでも、残った力を振り絞って、肩から提げていた自分の腕ほどの銃身がある89式(小銃の一種)を手に取り、振り向きざまに乱射する。
 薄暗い廊下にいくつもの火花が散る。足の踏ん張りがきかずに反動で体が大きくよろける。銃弾が何にあたったかすら、良く分からない。
 どうやら、これ以上逃げるのは無理なようだ。胸が熱い。足が重い。次の廊下の曲がり角まで、十歩ほど。窓から見える月の方が、まだ近そうだ。
 走り続けるのを諦める。
 そう、月の方が、まだ近い。
感覚がなくなった腕を叱咤し、窓ガラスに向けて銃把を振り上げる。
「ひるむな!」
 背後から声が聞こえ、追手たちがこちらに向かって銃を構える気配が感じられる。
 無数の火線が、廊下を貫く。
 しかし、もうそこには誰もいない。
 一瞬早く窓ガラスをたたき割り、外に飛び出した体を、心地よい浮遊感が連れ去る。二階の窓からの、地上への自由落下。
 体中の力が抜け、疲労が癒される。
 だが、それもつかの間。
すぐさま体が地面に叩きつけられ、強烈な痛みが肩口から全身を貫く。肩から、嫌な音が耳に響いた。受け身もろくに取れず、慣性の力のなすがままに小さくバウンドし、体を地面に転がす。
痛みに呻きながら意識をもうろうとさせていると、偶然、視野のはしに人影が映った。銃口をこちらに向け、怯えを含んだ目をしている。人を撃ったこともないのかもしれない。手にした銃が震えている。
「い、いたぞ! 中庭だ」
 男が今にも裏返りそうな声をあげる。男の声に反応して、周囲から警備員たちが集まってくる。月明かりに照らし出された彼らの顔には、怯えと怒りが混在していた。
 立ち上がる力もなく、地面に体を横たえたままぼんやりと考える。
 きっと彼らの中には仲間を今夜の襲撃で殺された者がいるのだろう。また、家に妻子を残して来ていて、こんな場所で死にたくないと思っている者もいるのだろう。
 だが、総じて彼らの表情は我が身に降りかかった理不尽な事態にどう対処していいかわからずにいる、子供のようだった。
 男たちが銃を構えながら、困惑した様子で話しあう。
「ど、どうする? 撃っちまって、いいのか?」
「いや、さすがにそれはまずいだろ」
「だが、放っておくには危険過ぎる。把握できているだけでも、七人はやられてるんだぞ」
「じゃあ、いったん武装解除させて――」
 不毛な議論を続ける男たちの様子を見て、つい、口元から笑いが漏れる。
「おい、こいつ、笑ってやがるぞ」
「てめえ、何がおかしい!」
 男たちが気色ばむ。
 何がおかしいって? そんなの、決まってる。
 彼らが余りに哀れで愚かしいから、笑ってしまったのだ。この期に及んで発砲出来ない状況判断の甘さ、敵の目の前で狼狽を隠そうとしない配慮のなさ。――全てが、愚かしい。
「その愚かしさゆえに、あんたらは負けるんだよ」
「なんだとっ――」
 男たちが反応するより素早く、彼らの死角から無事な手で手榴弾を取り出し、口でピンをもぎ取る。
ツヴァイク万歳! って、叫ぶんだっけ? こういう時って」
 悪魔の笑みを向けてやったところで、男たちの銃が一斉に跳ねる。同時に、体に激しい衝撃が走る。
 遠くで、他の男が発砲を止めようとしているのが分かる。だが、もう遅い。体から力が抜け、手榴弾から握っていた起爆レバーが外れる。
 視界が赤く染まって行く中、視界の中に月が映る。
――やっぱり、とても近いな――
 音も、苦痛も、消えていく。世界が遠ざかって行く様な感覚の中、ただ月だけが、今にも手が届きそうなほど美しく、輝き続けていた。
 だが、その意識も底なし沼にでもはまったかのように、急速にまどろんでいく。
何も、考えられなくなる。ただ、考えられなくなることへの恐怖だけ、はっきりと残る。
……ま……た……これ、が、死………



 全てが完全に闇に包まれる寸前、大きな濁流にのまれたようにして意識が体から切り離された。いつもそうだ。死をギリギリまで体感することは出来ても、その先に進むことは出来ない。
 手足の感覚が再び戻り、視野に光が蘇る。
 同時に巨大な爆発音が鳴り響き、中庭側の窓ガラスが激しく震え、砕け散る。
 咄嗟に伏せてガラス片の雨をやりすごす。立ち上がって中庭を見下ろすと、バラバラになった人間の破片や、四肢をもぎ取られた男たちがそこらじゅうに転がり、阿鼻叫喚の様相を呈していた。
――全て、順調なようだ。
 心の中で呟くと、視線を建物内に戻す。再び見えてきた景色はさっきの『彼』が見ていたものとほとんど変わらない、薄暗い廊下。そしてその先に二つ、警備員の背中がぼんやりと浮き上がって見える。二人とも先程の爆発に気を取られ、窓から身を乗り出して中庭を見ている。
 こちらの気配を気取られぬよう、足音を殺してゆっくりと近づいていく。
『パンパカパーン。地獄からの生還、おめでとう! よくぞ、三途の川までいって、帰って来てくれたね。キミが心地よく死んでいる間、ボクが必死になってサポートをしていたことも知らず、ほんと、良く帰って来てくれたよ。もうむしろ、いっそのことそのまま死んじゃえばよかったのに』
 機関銃のようにまくしたてる、早口な声。
 聴覚ではない。頭の中に直接、幼い男の子の声が響く。だからこちらも、頭の中の声で答えながら、警備員のすぐ背後に忍び寄る。
『このクラスターシステム最大の強みは、一度に多数の兵士を同時に手足の様に操ることが出来る点だ。だが、たまには一体のクラスターに焦点を絞って、その死まで感じてみたくなるんだよ』
『まるで、クラスターをやりだしたばかりの保育園児みたいな言い草をするね、キミは。そんなことで、今日の任務はちゃんとこなせるのかい? 保育園児がやるには少しばかり、骨が折れる任務だと思うんだけどな、これ』
『仕事はきっちりこなすさ。それなら文句はないんだろ、オミムネ』
『へえ、上手い事いうじゃん。仕事はきっちり、か。そうだよね。こんなずさんなやり方で、実際に任務までまともにこなせなかったら……う〜ん、なんて呼ぼう? 殺虫剤を使う価値すらないゴミ虫? それとも、宇宙のチリ?』
 どうやら、相棒は今日、いつもにもまして神経質になっているらしい。
『心配するな。全て、いつも通り――』
 警備員が物音に気付き、こちらへ振り向こうとした時には、もう遅い。
 小振りなナイフが月明かりにきらめく。警備員たちはうめき声一つ発する暇もなく、気管ごと頸動脈を断ち切られ、倒れ伏す。
『失敗する可能性が、思いつかない』
 はっきりといいきると、頭の中の声は黙り込んだ。代わって、男たちの緊張した声が耳に届く。
中庭に面した窓から、銃を掲げた男たちが次々と集まってくるのが見て取れる。仲間の無残な死体を前に、嘔吐する者もいれば、声をあげて怒り、罵る者もいる。隊長と思しき男が、烏合の衆と化した彼らを何とか動かそうと、大声で指示を出している。
「単純な奴らだ」
 どんなときにも、倒れている人間を見たらまず注意しなければいけないのは二次被害だ。そいつが怪我をした(もしくは死んだ)、ということは、そこに危険が潜んでいるということを端的に示唆する。そこへ周囲を確認もせず近づくのは、非常に危険だ。特に戦場ではあえて仲間をおびき寄せるためにわざと敵兵の手足を撃つ。そしてそれを助けにやって来た人間を狙うというのは常套手段だ。似た方法は、爆弾テロでもよく使われる。
 小さくほくそ笑むと、踵を返して中庭から離れる。ポケットの中から小型のリモコンを取り出す。
「……じゃあな」
 ついさっきまで、自分の体だった青年の死体。彼に向けたなけなしの弔(とむら)いと共に、強く、スイッチを押しこむ。
 閃光が走り、腹の奥に響く轟音と共に、先程よりもさらに強力な衝撃波が、残っていたガラスを容赦なく突き破り、熱風となって廊下を吹き抜けていく。
『やれやれ、感傷的なんだか、非情なんだか。ただ、外道のカリヤ、なんて呼ばれる戦略性は、相変わらずだね』
 頭の中の声に、沈黙でもって答える。
 作戦は計画通り成功した。これで、目標までのルートはほとんど無人だ。
 本命の作戦のために他のルートから侵入していたメンバーと合流し、残されたわずかばかりの警備要員を排除していく。
容易に目的の部屋の前まで到達することが出来た。
 重厚な金属製の扉を前に、確認をとる。
『今回の任務は、この向こうにある目標物の回収。それで良いんだよな』
『そういうこと。それじゃ、今その扉を開けるから、少し待っててね』
 扉の向こうから現れるのが、銃口でないという保証はない。部下と合わせて五人で配置に着き、扉を取り囲む。
 静かな沈黙。
『オッケー。解錠完了!』
 低いモーターの駆動音と共に扉が開きだす。内部から特に、銃撃される気配はない。
 銃のグリップを握り直すと、意を決して部屋の中へ突入する。
 部屋の中は、真っ暗だった。
いや、違う。
すぐに、雲で月が隠れただけだと分かる。まるで、砂時計の砂が落ちる音でも聞こえてきそうな、静かな時間が流れる。雲が風で流れ、部屋にあった大きな窓から、部屋の中に、ゆっくりと明かりが戻ってくる。
まず、童話の主人公たちが織り込まれた、メルヘンチックな絨毯が照らし出される。次に、大小様々な動物のぬいぐるみが置かれた飾り棚。さらには、物語の世界でだけ見たことがあるような、天蓋付きの豪奢なベッド。
自分はどこか、おとぎの国にでも迷い込んでしまったのではないか。ここまでの無機質な施設内の様子とは正反対の空間を前に、おかしな錯覚にとらわれる。
『……オミムネ、こんな場違いな子供部屋みたいなところにあるターゲットって、いったい何なんだ?』
『見た目で物事の本質を知ろうとするなんて、まだまだだね』
『ほう、たったの10歳で悟りを開いたって? そりゃさぞかし耄碌(もうろく)するのも早そうだな。いや、もう耄碌してるのか?』
『なら、ボクより年上の狩谷はボケボケのお爺ちゃんだね。あ、ほら、見えなかった? その部屋の端にいるはずだよ』
 オミムネとは視覚をある程度共有しているが、必ずしも二人同時に気付くとは限らない。
『いるはずって――』
 その時ようやく、完全に雲が月から外れ、人影が月明かりに浮かびあがる。
 そこにいたのは――ナポレオンだった。
「……」
『……』
 室内を、沈黙と困惑が支配する。
「なによ、あんた。人の部屋にどかどか上がりこんでおいて、挨拶も出来ないの?」
 部屋の中央、ベッドの上に堂々と胸を張って座るナポレオンからいわれ、反射的に謝る。
「あ、す、すみません。えっと、こんばんは」
「そう。それが、礼儀ってものでしょ」
「……」
「……」
 再び、沈黙。さすがに耐えられなくなって、オミムネに救いを求める。
『これは、どういうことだ? まさか、このナポレオンがターゲットなのか?』
『う、うん。正解』
 頭の中に、心なしか自信のなさそうな返事が響く。
『こ、こんなののために、おれは施設の警備要員と死闘を繰り広げてきたっていうのか?』
『ま、そういうことになるかな』
『だけどこいつ、ナポレオンだぞ』
『うーん、そうだね』
 煮え切らない返事が返ってくるばかり。これでは、らちが明かない。
「ちょっと、ぼうっとしてないで、何とかいいなさいよ。用があって来たんでしょ?」
 何故かマットレスを叩きながら怒るナポレオン。もう訳が分からず、思ったままのことを口にする。
「いや、用はあるにはあるんだが――というか、なんでナポレオンなんだよ! こんなおとぎの国みたいな部屋に、ミスマッチ過ぎるだろ!」
「何よ、あたしはこの部屋の征服者なんだから。征服者といえば、ナポレオンでしょ! それとも、このあたしが間違ってるっていうの?」
「む、無茶苦茶だ……」
 しかし、ようやく薄明かりに目が慣れ、ナポレオンの姿をはっきりと捉えられるようになってきた。もちろん、女の子の声をしている時点で、本物のナポレオンのはずはない。
『それ以前に、どっからどう考えても本物なはずないだろ』
 頭の中に響くオミムネの声は無視だ。
 この、自称『おとぎの国の征服者』は14,5歳の少女だった。活発そうな小麦色の肌に、幼さの残る丸みを帯びた頬。大きな目は爛々と輝き、勝気そうな性格を如実に表していた。もちろん、服装はかの有名なナポレオンがアルプス越えをした際の絵に出てくる、あの姿そのものだ。やたらと幅の広い帽子にぴっちりと肌に張り付いた長ズボン、黒ブーツ。さらに肩からは黄色いマントを袈裟がたにかけている。
「それにしても……」
 ついつい、絵画でしか見たことがない服装を前に唸(うな)ってしまう。
「どう? カッコ良いでしょ」
 少女が目をきらめかせる。
「実物で見るとかなりバカっぽいな」
 ベッドの上に置かれていた枕が、容赦なく顔面に叩きつけられる。痛みに呻(うめ)く間もなく、さらにクマのぬいぐるみやらペンギンやらが襲いかかってくる。
「自分はヘドロみたいな服着てる癖に、あたしの完璧な服装をバカにするだなんて、百年、いえ、万年早いのよ!」
「いや、こいつは迷彩服――ダボウ! ちょ、よせ! 待った!」
 口にクマの尻が入って、まともに喋れない……。この少女、思った以上に怒りっぽいらしい。
 そこへ、オミムネの焦った声が届く。
『狩谷、大変だよ!』
『ああ、こっちも大変な状況だよ。オミムネ、おれとこのクラスターの操作、代わってくれないか』
『そんな悠長なこといってる場合じゃないって! 外から、侵入者だ!』
 少女の怒声をかき消すように、オミムネの悲鳴に近い声が頭の中に響く。予想外の話に、少女から顔を背け、飛んでくるぬいぐるみを手で遮りながら、問い質す。
『外部から、応援が来たっていうことか? だが、それにしちゃ早過ぎないか?』
『違う! 相手は、ただの警備員何かじゃないよ。動きからして全員、こちら同様、高度に統率されたクラスターだ。その数、およそ10』
 オミムネの思わぬ報告に、目を見張る。
『どういうことだ! たかが研究施設の警備に、それもこれだけの迅速さでクラスターが派遣されるなんて、まともじゃ考えられない事態だぞ!』
『よくは分からない。でも、あいつらも、目的はボクらと同じ。そのおねえちゃんだよ』
『な――そいつはどういうことだ!』
『そんなことより、急いで! もう、施設周辺に配置していたクラスターが突破された。今すぐ迎撃態勢を取らないと、全滅するよ!』
「どうなってるんだよ、くそ! クラスターが出てくるってことは、同業者か?」
 吐き捨てるようにいった言葉に、ナポレオン少女が反応する。
「ちょっと、人を無視するんじゃない! それに、クラスターって何よ?」
クラスターを知らないのか? おれと同い年ぐらいなのに、正気かよ?」
「そっちこそ、目が腐ってるんじゃない? あんたのどこがあたしと同い年よ。変なガラの帽子に、口元から下にスカーフなんて巻いてるから顔はよく見えないけど、絶対二十歳は越えてるでしょ」
 これは驚いた。どうやら本当にクラスターが何か知らないらしい。相当な田舎者なのか、それともクラスターに関わる必要がないほどの富豪の家に生まれたのか。意識を広げ、部屋の前で待機させていた部隊を周辺の守備に割り当てながら答える。
「この肉体は、おれのものって訳じゃない。見た目は人間と同じだが、首の後ろにデータを授受するチップがついてる。そこからクラスターシステムって呼ばれてる遠隔操作で、意識を同調させて操ってるだけだよ。おれの体ははるか遠く、安全な場所で待機してる」
「じゃあ、あんたは人さまの体を影から操る、卑怯者ってこと? 最低ね」
「人聞きの悪いこというんじゃない。この体は、クラスターとかK―2とか呼ばれてる、生体ユニット――つまり化学的に培養された疑似人体だよ。複数のK―2を一人の意識で同時に操るから、クラスター(房)なんて名がついてるのさ」
 いい終えたところで、遠くから窓ガラスが割れる音が聞こえる。
「来た――」
 どうやら、無駄話はここまでの様だ。全身に、痺れるような緊張感が走る。
「敵が、来たのね。いいわ。このあたしが、直々にそのクラスターとやらの指揮を取ってあげる。さあ、状況を報告しなさい」
『……オミムネ、この子、何とかしてくれ……』
『ある意味、ターゲットに相応(ふさわ)しい天然記念物級の自信家だね』
『なら、国が保護してくれよ』
溜息を一つつくと、少女に背を向け、意識を敵侵入口近くののクラスターたちへと広げる。
 こちらのクラスターの数は30体。どれ程の数のクラスターを操ることが出来るかで、操作者の腕はほぼ決まる。
『あちらさんも相当なやり手の様だけど、勝てそう?』
『誰にものを言ってるんだ。おれは当代随一のS級武官だぞ』
『……そういうことを自分でいっちゃう辺り……』
『何だよ』
『イタいよねー、狩谷』
『うるさい! ほっとけ!』
 数からして、クラスター同士で持久戦を行えば、ターゲットの少女を確保できたとしても、その頃には施設が警察によって二重三重に包囲されてしまう。敵の戦力ではそれを突破することは難しい。つまり、敵の襲撃部隊は持久戦を避けるため、一点集中突破で来るはずだ。となれば、こちらは施設内の各所に待ち伏せを置き、戦力で劣る敵の数を確実にそいでいくのが上策だろう。こちらにも一定量の被害は出るが、決して負けることはない。
 だが、どうしてあんな女の子が、こうして奪いあわれるのだろうか?
 おとぎの部屋を出ながら、横目で少女を振り返る。
 そこには、巨大なクマの顔があった――
「ゴフウ――」
 狙い過(あやま)たず飛んできたクマのぬいぐるみと、キスする羽目に。痛みに顔を押さえていると(自分の体でなくとも、意識を共有していれば痛いものは痛い)少女の不貞腐れた声が聞こえる。どうやら、無視して置いてかれたのが気に入らなかったらしい。
 この小生意気なナポレオン、どうしても守らなければダメなのだろうか?


 意識を何十体ものクラスターに分散して遂行するクラスター同士の戦闘では、基本的な力関係が存在する。まず、当然のことだが数が多い方が圧倒的に有利だ。一人の意志の下、一体となって運動するクラスターは、その部隊の規模によって各段に威力を増す。その一方、全体を操るのは所詮一人か、せいぜいはそのサポートについている人間だけのため、数が多ければ多いほどクラスター一体一体に振り向けられる意識がどうしても希薄になり、戦闘能力が低下する。
 つまり、この二つの関係を考慮し、最も戦力が高まる数のクラスターを操ることがセオリーなのだ。しかし――
『こんな戦略、あり得ないだろ!』
 余りの事態に、ついオミムネに向かって文句を叫ぶ。
『そんなこと、ボクにいわれたって知るもんか! それより、来るよ』
『く、とにかく、何とか足止めだけでも――』
 だが、ダメだった。
廊下に待ち伏せさせていたクラスターが飛びだし、銃撃を浴びせる。発射された5.56ミリ弾は、与えられた音速の2倍超にまで加速されたスピードを失うことなく、至近距離から敵クラスター部隊に命中していく。小さな銃弾に込められた凶悪なエネルギーが生身の肉体に食い込み、数体の手足から血飛沫(しぶき)が舞い、中にはひじから先が吹き飛ぶ者もでる。しかし、彼らは一切止まらないのだ。
「ウオオオオオ!」
 幾重にも重なる、獣の様な方向が薄暗い廊下に響き渡り、手負いの野獣たちが奔流となって走り抜けていく。
血が滴るまま、千切れかかる腕を引きずったまま、待ち伏せしていたクラスターに襲いかかる。彼らの残された手に握られたナイフが赤い血と共に鈍いきらめきを放つ。
全身を、引き裂かれる、強烈な痛みが走る。
こちらのクラスターが瞬く間に血祭りにあげられていった。
「くあああ!」
 脂汗をかきながら、死にゆくクラスターたちから意識を切断する。
『冗談じゃない! こいつら、化け物か!』
 いくらクラスターシステムを介した遠隔操作といっても、K―2のベースは人間と変わらない。死の恐怖はなくとも、銃撃を受ければ痛みを感じ、損傷が大き過ぎれば戦闘続行は不可能になる――そのはずなのに!
『落ち着いて、狩谷。連中も確実にダメージを負ってる。このまま削って行けば、止められるはずだよ』
 だが、同じことを何度繰り返しても、結果は変わらなかった。こちらの損害ばかりが増えていく。
『ダメだ……あいつら、まともじゃない。どれだけ銃弾を撃ち込んでも、奴らの服に血の染みを増やすことしか出来ないじゃねえか!』
『だけど、敵部隊にも戦闘不能になったクラスターが出始めた。あとひと押しだよ』
『分かってる! こうなったら、S級ライセンスの威信にかけて、返り討にしてやるまでだ!』
 残された戦力は当初の半分以下、11体まで減っていた。その全てを、少女がいた部屋の前へ集結させる。危機的な状況であればこそ、戦略を転換し、状況を反転させる好機だ。
『あのゾンビどもを、ここで全滅させる』
 ここが最後の防波堤であり、ここで勝負が決まる。
『集結、終わったみたいだね』
『ああ。これでもまだ数の上では上だ。ここでじっくり守れば、負けはない』
 相手の飛び抜けた接近戦能力の高さは、完全に予想の範疇を越えていた。だが、戦略性で後れを取るつもりはない。
そこへ、血で全身を染め上げた敵部隊が姿を現す。
「この……異常者め!」
 思わず毒づく。敵部隊は仕留めたクラスターの死骸を盾の様に持ち、廊下いっぱいに並べて遮蔽物代わりにしていたのだ。背後にいる敵の姿はまるで見えない。
『やばい、来るよ!』
 オミムネの悲鳴に近い声。
 敵部隊が一斉に、こちらへ向けて殺到してくる。
 迷っている暇などない。すぐさま89式を構え、弾幕をはる。
相手も死骸の裏に隠れて走りながら撃ち返してくる。銃弾の応酬が始まった。
互いの間に横たわるのは、二十歩分ほどの薄暗い廊下。そこを、火花と硝煙が舞い飛ぶ。だが、こちらが有効な打撃を与えられずにいる間に、敵部隊によって、瞬く間に二十歩分の距離が踏破される。死骸をこちら向けてかなぐり捨ててくると同時に大振りのナイフを抜き、襲いかかってくる。
「甘い!」
 すぐさま、その無防備になった体へ89式を向ける。しかし、銃身の長い89式だけあって、反応がコンマ一秒、遅れる。
この戦いを決するにはそれだけで十分だった。
 引き金を引くより先に血ぬられた凶刃がきらめき、銃を手にしていた腕の腱や動脈が断ち切られる。
 一歩後ろに立っていたクラスターは無事だったが、味方が邪魔で発砲出来ない。その一瞬の間に前衛のクラスターは全滅し、敵クラスター群が後方部隊へ襲いかかる。
 何体かの反応は間に合い、89式が火を吹くが、敵は一切ひるまない。
「この……!」
 今度は迷わず小銃を投げ捨て、ファイティングナイフを引き抜き迎え撃つ。まれにみるクラスター同士の超接近戦が始まる。だが、判断ミスだったと気付くのにそれ程時間はかからなかった。
 敵は慣れた手つきでこちらのナイフの軌道をかわし、伸びきった手や無防備な首筋に向けて流れる様な動作で切りつけてくる。かろうじてこちらも紙一重でかわしていくが、反撃する余裕もない。
『や、やばいよ、狩谷』
 オミムネが焦って叫ぶ。
『練度が、違い過ぎる。相手の土俵で戦ったって、勝ち目がないよ』
『そんなこと、分かってる!』
 だが今更、どうしようもない。
『しっかりしてよ、狩谷。ボクは、ターゲットを奪われるわけにはいかないんだ!』
『おれだって……負けたくないのは、山々だが……』
 脳内での交信も、まともに出来ない。敵のナイフをよけるだけで、意識がほとんど手いっぱいだ。
『連中……何者、なんだよ。おれの雇い主の、ツヴァイク社、以外で……これだけの腕を持つ武官がいるなんて、聞いたこと、ないぞ』
『……彼女は、イレギュラーなんだ』
『彼女? ――しまった!』
 思わぬオミムネの言葉に聞き返したと虚を突かれまた一体が凶刃を受け、倒れる。
『もう一度撤退して、体勢を立て直そう』
『ここはターゲットの部屋の前だぞ! これ以上、どこに撤退するっていうんだ!』
 喚き合っている間にも、こちらのクラスターが次々と敵の刃を受け、みるみる減っていく。そして遂には、一体だけになっていた。
「クソ、こんなはずじゃ――」
 敵の繰り出すナイフをナイフで受け止める。だが、ナイフに込められた力は想像以上に強く、弾き飛ばされて後ろの扉に背中をしたたかに打つ。
 息がつまり、思わず咳き込む。そこへ、止めを刺すべく相手が体をしならせ、全身に力を込める。
 刹那――二人の視線が合う。
 血に染まり、おぞましい姿をしたクラスターの目の奥に、狂気の炎が揺らめいているのが見えた気がした。
 瞳の中の炎が大きく燃え上がり、全身をばねにして襲いかかってくる。しかし、こっちもそうそうやられてばかりはいられない。
 タイミングを計り、身をくねらせてナイフかわし、相手の胸元へ飛び込む。そして駆け抜けざま、その頸動脈を断ちきった。
 血が噴水の様に飛び散り、背後で人が崩れ落ちる音がする。
 意識を一体に絞った状態でなら、さすがに後れはとらない。
 だが、反撃もここまでだった。
 残った敵のうち三体が、一斉に襲いかかってくる。
 これでは、避けようがない。
『オミムネ――』
 心の中で呼びかける。同時に、迫りくるナイフを一本、叩き落とす。だが、これ以上はどうしようもない。
『おとぎの部屋への扉を、開けるんだ!』
『え? でも――』
『いいから、早く――ぐああ!』
 胸と肩口に、深々とナイフが突き立つ。手から力が抜け、ナイフが滑り落ちる。
 さらに追い打ちをかけるべく、二体はナイフを引きぬくと、再び血のしたたるナイフを振り上げる。支えを失い、足元から崩れ落ちそうになる。
まだだ。まだ、倒れるわけにはいかない。
最後の力を振り絞ってぐらつく足を保つと、手榴弾を手にとり、ピンを口で引き抜く。
大きく目を見開く相手に頬の筋肉をひきつらせて笑って見せる。
「道連れ、だ……!」
 手榴弾が手から滑り落ち、床の上を跳ねると同時にレバーが外れる。
 命知らずの襲撃者たちも、これにはさすがに怯み、素早い動作で一斉に後退する。同時に、背後で扉が開く音がする。
 喉から血がせり上がり、足がふらつく。だがそれでも、自分の血に滑りそうな足を踏ん張り、部屋の中へと転がり込んだ。背後で自動的に思い扉が閉まると同時に、巨大な爆発が巻き起こる。吹き荒れる衝撃波が、閉まりかけた扉の間を抜ける。体がふわりと持ち上げられ、そのまま前方に勢いよく弾き飛ばされる。
 額を強(したた)かに打ち、床に転がる。だがそれでもギリギリで扉が閉まったお陰で、何とかまだ意識はあった。ボロ雑巾のように床に倒れ込んだまま、息をしようと喘ぐが、喉から掠れた音がするばかりで、全く体は楽にならない。どうやら、傷の一つは肺を貫いているようだ。
 これだけならば致命傷ではないが、肩口の傷からは血が止まらない。失血死は、免れないだろう。
 だが、敵部隊もあの爆風を逃れるすべはなかったはず。この勝負は引き分け、といったところか。
 あの狂ったクラスターたちを操っていた人物が今頃悔しさに足を踏みならしているだろうと思うと、溜飲の下る思いだった。
 しかし、すぐにそんな安心感は扉を叩く銃弾の音で破られる。
――まさか、あの至近距離から、爆発を逃れたっていうのか?
 脳裏に、クラスターの死骸を盾に突撃してきた奴らの姿が蘇る。
そうだ。きっと、扉の前に散らばっていた死骸をまたしても盾代わりにして衝撃を減らしたんだ。
溜息の代わりに、血の混じった咳が出る。
 任務、失敗、だな……。
 もうどうする力も残っていない。
 だが、静かに目を閉ざそうとしていたところを、何者かに唐突に引き起こされる。
 徐々に光が失われつつある目をもう一度開くと、その先には例の少女がいた。よく分からないが、首筋に微かに感じる温かみからすると、頭を少女の膝の上に乗せられているらしい。
 頬に、何か温かいものが落ちる。
 何だろうか、と思っている間に、さらに、二滴、三滴と落ちてくる。
 少女は、泣いていた。
 仰々しいナポレオンの帽子は脇に落ち、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
 あれほどまでに勝気で自信満々だった少女が、打って変わって弱々しく見えた。
 何故だろう。
 ここにいるのは、いくらでも代えの効くクラスターに過ぎない。なのに何故、その死に、泣く必要があるのだろう。
「行かないで――」
 少女の蚊の鳴く様な声が届く。まるで、とても遠くから聞こえているようだ。
 クラスターの死など、どうということもない。そのことを、伝えてやりたい。
 何とかして、慰めたい。そう思うが、もう肺の中に空気が残っていない。
「あたしを、た――」
 少女の言葉を聞き終えることなく、意識は暗い闇の中に沈んでいった。


1.テロ

 あれは、いったい、どういうことなんだ?
 狩谷慧一ははるか遠方の生体ユニットと自身とをの電気的なつながりが切れると、体の上に覆いかぶさっていた大型のプラスチック製カバーを乱暴に押し上げ、椅子の背もたれから体を起こした。ポケットから取り出した携帯を操作しながら、長く伸びた髪をかきむしる。
慧一の見た目は、良くいえば繊細な造りの顔、悪くいえばただの優男。せめて目を覆うまでに無計画に伸びた髪を切ればもう少し人が受ける印象も変わるのだろうが、今の彼は、失敗に打ちひしがれた元エリートととでもいった容貌だった。
だが、実際、彼はエリートと呼ばれて差し支えない立場にある。最大手の武装商社『ツヴァイク』に勤め、クラスターを操って任務をこなす、最高レベルの武官だ。だが、それがどこの誰とも知れない相手に、手も足も出ずに敗北を喫したのだ。
それに、あの子は……何者だったんだ?
最後に見た泣き顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
任務について調べるのはタブーだ。だが、気にせずにはいられない。任務依頼のメールを良く見てみれば、情報があるかもしれない。
 だが、そう思ってメールを確認していくうちに、その顔が歪み、驚きに目を見張る。慧一の視線は、携帯の画面に釘付けになっていた。
「任務依頼の履歴が、消え、てる……?」
 昨日、確かに慧一の所属しているツヴァイク社から送られてきた招集を報せるメールが、跡形もなく消え失せている。まるで、何事もなかったかのようだ。
あれは、単なる夢だったとでもいうのだろうか。
頭が混乱し、訳が分からなくなる。
 焦るな。落ち着くんだ、狩谷慧一。こういう時こそ、冷静に考えろ。
 しかし、どれほど考えても、自分の身に何が起こっているのか、理解出来ない。ただ、悪い予感だけが、ひしひしとわき起りつつあった。以前、同じような出来事があった時には――
 慧一の体を耐えがたい寒気が襲い、体をぶるりと震わせる。それは、彼が決して思い出したくないトラウマだった。
 いや、あの時と今回は、違う。あの時は任務をおれ一人でこなしたが、今回は相方であるオミムネが一緒だったのだ。そうだ、まずはオミムネに話を聞くべきだろう。
 縋るような思いで、オミムネに電話する。
 コールが一回、二回、三回――
「慧一、ご飯よ!」
 階下から、母親の呼び声が聞こえる。オミムネは電話に出そうもない。仕方なく、慧一はコールを切ってリビングへ向かった。
 どの道、着信履歴に気付けば向こうの方からかけ返してくるだろ。

 あの女の子は、あんな場所で、何をしていたんだろう。
 慧一は、夕食のそうめんを口に運びながら、クラスターシステムの先で出会った少女のことばかり考えていた。
前に座る両親は二人で互いに話すことに夢中で、黙々と食べ続けている息子には目すら向けない。まるで、レストランで偶然相席になった客と一緒に食べているかのよう。慧一に喋りかけてくるのは、せいぜい、テレビの中で今日のニュースを熱心に語っているニュースキャスターぐらいだ。
「戸締りには十分、お気をつけ下さい」「まだまだ気温は高いので、熱中症対策が重要です」
 分かりきったことを、紋切り型の口調でいうばかり。両親はまるで気にしてもいない。
 慧一は、そうめんをあえて大きな音を立てながらすすった。
 不自然なほど、噛み合わない食卓。
しかし、これが狩谷家のいつもの食卓だった。
慧一の両親は慧一が中学に上がるまでの間、共働きで忙しく、慧一は祖父母の家に預けられて育ってきた。しかし、研究所の職員だった祖父母はあるテロ事件に巻き込まれ、六年前、命を落とした。以来、慧一は再び両親の下で暮らすようになったが、未だに両親に対して親子という実感を持てずにいた。一方の両親の方も、突然手元にやってきた大きな息子をどう扱っていいかわからず、極力関わりを避けているというのが現状だった。
 だが、慧一はこの生活にとっくに慣れてしまっていて、何も感じない。そうめんにのる氷のように冷たい家庭環境より、あの少女のことの方が、余程気になった。
 今頃、あの少女は後から現れた謎の襲撃者によって身柄を確保されているだろう。いや、もしかしたらその場で射殺されているかもしれない。
 そう思うと、いてもたっても居られなかった。
 任務地の説明は、おぼろげな記憶では大陸での任務、となっていたはず。しかし、あれは本当に大陸での出来事だったのだろうか。だが、慧一の中には、不思議なほど、あの出来事は日本国内で起こったことなのではないか、と思えてならなかった。
 もしそうならば、クラスター越しにではなく、直接あの子に会うことも不可能ではないはずだ。
 一度そう考えると、どうしても会ってみたいと思わずにはいられなくなる。
これはどういうことだろうか?
 慧一の物想いを遮る様に、ニュースキャスターが語りかけてきた。
「いま入ったニュースです。山梨県にある、ツヴァイク社の鳴沢村(なるさわむら)共同研究所が午後八時過ぎ、テロリストと思われる集団による襲撃に遭いました。犯人は爆発物を用い、多数の死傷者が出た模様です。今のところ、詳細は分かっておりません。繰り返します――」
「あら、鳴沢村って、お義母さんたちがなくなられた場所じゃなかった?」
「ああ。またテロに遭うだなんて、つくづく、ついてない土地だ」
 両親の会話が、ずっと遠くに聞こえる。
 ツヴァイクといえば、慧一の雇い主の会社だ。初めの内、慧一は何気なくニュースを聞いていた。だが、徐々に頭の中に不吉な風景がフラッシュバックしてくる。
――薄暗い廊下――研究施設――美しい月――
 知らず知らずのうちに、慧一の手から箸が滑り落ち、音を立ててフローリングの上を転がる。両親が怪訝な目を向けてきたが、慧一は気付きもしなかった。
――山梨――テロリスト――襲撃――消えた依頼メール――
 目の前が、真っ暗になっていく。
 まさか、という思いと、予感が当たったのだという呻きとが、頭の中で錯綜する。
 武装商社によって雇われた武官は、クラスターを用いて様々な依頼をこなす。多くは海外での戦争や諜報活動に関わる仕事だ。だが、決して国内で、非合法に、それも武装商社自身の研究所を襲うなど、あり得ない。
 慧一は、驚きの余り息をすることもできず、ただ口をぱくぱくとするばかりだった。
 あのメールは、まさか、ニセモノ?
おれが――テロリスト?
 呆然自失していた慧一を正気に戻したのは、ポケットの中の携帯の震えだった。反射的に通話ボタンを押し、耳元に押し当てる。
「もしもし、狩谷? 留守電が入ってたけど、どうかしたの?」
 のんびりとした、平和そうな声が携帯から届く。
「どうかしたの、じゃないだろ! ニュース、見てないのか?」
「え? ニュースって?」
「いいから、テレビをつけてみろ。山梨で、テロリストの襲撃があったって、特報でやってるから」
 早口で言いながら、急いでリビングを出て自分の部屋に移る。扉を後ろ手に閉め、声をひそめながら付け加える。
「おれたちだ。おれたちがさっきやった任務は、ツヴァイク社の研究所の襲撃だったんだ」
「山梨のニュースの事なら、知ってるって。それより、狩谷の学校、夏休みにはまだ入ってなかったよね」
「は? そりゃまだだけど、そんなこと話してる場合じゃないだろ! 正気か? お前、まだ状況が分からないのか?」
 自分とオミムネとの間にある余りの温度差に、慧一は焦れて言葉を荒げる。
「もう一度説明するぞ。この襲撃があった時間って、まさにおれたちが任務に就いていた時だろ。それに、あの施設だって、言われてみれば何かの研究所みたいだった。お前だって、バカじゃないんだから、これが意味することぐらい分かるだろ」
「そりゃつまり、ボクと狩谷が、ツヴァイクの研究所を襲った犯人ってことだろー?」
 あっさりと、慧一が最も恐れていた答えをいってのける。予想はしていた。しかし、否定したかった事実を改めて人からはっきりと突きつけられ、逆に慧一が言葉に詰まってしまう。
「作戦場所が日本で、非合法なテロ行為に当たるって事ぐらい、最初から分かってやってたよ。もちろん」
「……じゃ、じゃあ、おれたちの雇い主のツヴァイク社が、自分で自分のところの研究所を襲撃するよう、指令を出したっていうのか?」
 慧一には、まるで訳が分からない。それでも慧一が何とかパニックにならずにいられるのは、電話の向こうにいる弱冠十歳に過ぎない小学生が、平然としていてくれるからだった。さもなければ、今にも大声で叫び出してしまいそうなほど、慧一は怖かった。
「そんな、気にしなくても大丈夫だって。ボクと狩谷は、任務をいつも通りこなしただけなんだから。狩谷って、任務中と私生活とで、コロッと性格が変わるよね。普段の狩谷は意外と心配星人なんだー。でも、安心してよ。狩谷が警察に捕まるなんてこと、ないからさ」
 心配星人ってなんだよそれ?
 緊迫した状況に、滑稽なほど合わない幼稚な言葉。ただ、今の慧一には突っ込む余裕すらない。
「そんな、ここまで大々的にニュースになって、大丈夫なわけないだろ。オミムネ、お前はいったい何を知ってるんだ? おれたち、いったい何に巻き込まれちまったんだ?」
 核心を突いた質問にしかし、オミムネは沈黙する。
「おい、オミムネ?」
 慧一の催促に対し、ややあって、ようやくオミムネは答えた。
「……狩谷、実は、どうしても一つだけ、伝えておきたいことがあるんだ」
「ああ、打ち明け話、大歓迎だね。全部話せよ。おれたち、パートナーだろ?」
 かすかに、オミムネが笑う気配が伝わる。
「そーだね、ボクと狩谷は、パートナーだもんね」
「ああ。だから、教えてくれよ。おれだってこのままじゃ、寝覚めが悪過ぎるだろ」
「うん。実は、さ――」
 携帯の向こうから、チャイムの音が聞こえる。
「あ、ごめん。誰かお客さんが来たみたいだ。また、かけ直すよ。それじゃ」
「ちょ、ま――」
 だが、一方的に通話が切断される。
「くっそ、なんだよ、オミムネの奴」
 携帯に向かって毒づくと、乱暴にベッドの上へ放り出す。オミムネから詳しい説明を受けるまでは、到底食事に戻る気にもなれず、ベッドの上に転がった。
焦って電気すらつけていなかった暗い部屋の中、慧一はただじっと待ち続けた。
 だが、結局朝までオミムネからの連絡は来なかった。代わりに翌朝、ニュースは大々的に襲撃事件の犯人について報じていた。曰く、今回の事件の主犯格はなんと弱冠十歳の少年Oであり、ツヴァイクの指令システムにハッキングし、偽造した指令メールを用いてクラスターに研究所を襲撃させた。そして自らに捜査の手がのびると、隠し持っていた拳銃で自殺を遂げた、とのことだった。



2.死者の呼び声


 クラスターが、日本国内でテロに使われた。それも、たったの十歳の子供にセキュリティを破られて――学校中が、昨夜のテロ事件の話題でもちきりだった。
「エニシ、聞いたかよ。実際にK―2を操作してた奴はまだ捕まってないけど、なんでもすごい腕前だったらしいぜ。厳重に守られてたツヴァイク社の最先端の研究施設を、たったの30体前後のクラスターだけで襲撃して、最深部にあった極秘資料を奪い取ったんだとよ」
 クラスメートの及川颯(はやて)が、物知り顔で語ってくる。すぐ横で、彼の双子の妹である楓(かえで)が、「こわーい」と言って頬に手を当てている。
 いつ、自分の下に警察がやってくるのかと、びくびくしながら学校に登校した慧一だったが、学校での会話は針のむしろに等しかった。
「あ、ああ。大変なことが、あったらしいね」
 頬の筋肉を無理に動かし、何とか笑みらしきものを作って見せる。そんな慧一の表情を見て、颯が不思議そうな顔をする。
「どうした、エニシ。具合でも悪いのか?」
「え、え? 辛いんなら、楓が保健室に連れてってあげるよ?」
エニシ、とは慧一の学校でのあだ名である。慧一は、反射的に首を振る。
「大丈夫だよ。ただ……ただ、すごい衝撃的な話だったから、ちょっと驚いちゃって……」
 適当に言葉を濁すと、颯は我が意を得たりとばかりに大きく頷く。
「うんうん、やっぱり、そうだよな。何せ、クラスターは日本の産業の屋台骨、傭兵産業の根幹をなしてる技術だからな。そのセキュリティが小学生に破られた上、クラスター産業を一手に担う武装商社の研究所が、あべこべにクラスターの襲撃を受けたっていうんだ。なんでも噂じゃ、この国の政府転覆をたくらむ外国のスパイがバックにいるらしいんだ。こいつはひょっとしてひょっとすると、この国を揺るがす、大事件になるかもしれねえぞ」
 どこから仕入れてくるのか、相変わらず、颯はこの手の噂を仕入れるのが速い。そして真偽を考えもせずに周囲に知ったかぶりで話す。楓のいうことは、話半分で聞いておくのがベストだ。
 だが、今日の慧一は颯の言葉を軽く受け流す余裕はなかった。
――外国のスパイが、バックにいる――
昨日、後から現れた謎の襲撃者のことが頭をよぎり、額を脂汗が伝う。
「ええー、そ、そうなの? 楓、そんな事になったらどうしよう?」
 兄の言葉を疑うことを知らない楓は、頬に手を当て本気で不安がって、慧一の袖を引っ張ってくる。
「ね、ねえ、だけどエニシならさ、そんな人たちに負けたりなんかしないよね」
「当たり前だろ。エニシは任務達成率でみりゃ、ツヴァイク社トップの腕前だぞ。『外道のカリヤ』といえば、ネット上じゃ憧れの的じゃねえか。な、エニシ」
「勘違いしてるみたいだけど、あの研究所を襲ったのはおれなんだよ。いやー、ニュースを見た時には、びっくりしたよ。まさか、ツヴァイクの研究所だとは思わなかったから」
――などといえるはずもなく、颯から背中をばん、と叩かれても、意味不明な笑顔を顔に張り付けていることしかできなかった。
 しかし、こんな不毛な会話をしながらも、不安にかられる一方、もしかしたら、このまま何気ない日常がずっと続くのではないかと、慧一はかすかに期待していた。全ては杞憂で、悪夢を見ていたようなものなのではないか。いつも通り、どんなつらい現実も、適当にへらへらと笑って過ごしていれば、何とかなるのではないか。
 だが、そんな慧一のかすかな希望を、一通のメールが無情に断ち切ることになる。
「? エニシ、携帯、鳴ってるぞ」
 ぼうっとしていた慧一は、いわれて初めて自分の携帯が震えていることに気付いた。そして何気なく画面を見て――凍りついた。
 差出人は、『オミムネ』。
「――ニシ、――か、どうかしたのか――」
 颯の声が、はるか遠くに聞こえる。教室から自分の周りの空間だけ切り離され、昨夜の薄暗い廊下に自分一人だけ放り出されたかのようだ。
 オミムネは、死んだはずだ。
 オミムネからメールなど、来るはずがない。
 鼓動の高まりを感じながらも、震える手で、メールを開く。
『窓の外を見てみなよ』
 短く、一文。
「エニシ、何が書いてあったんだ?」
 颯たちのいぶかる声を無視して、慧一は憑かれたように立ち上がると、窓へよろよろと歩み寄る。背後で椅子が倒れる音がしたが、気にしない。
 窓から外を見ると、10人近い背広姿の厳めしい男たちが、校庭を横切って校舎へ向かってくるところだった。
 直感的に分かる。刑事だ。ついに、捜査の手が伸びてきたのだ。
 もう、おしまいだ。
 ツヴァイクのエリート武官としての人生も、何もかも、今日で終わる。
 刑務所送りか?
 いや、未成年だから、少年院送りだろうか。
 頭から血の気が引き、頭の中が真っ白になる。
 だが、体からさ迷い出そうな勢いだった慧一の心を、メールの着信音が再び押しとどめる。
『今すぐ、その教室を出て渡り廊下を通って東棟へ』
 逃げろ、というのか。
 慧一の中に、様々な考えが浮かぶ。
 このメールの差出人は、本当にオミムネなのか? まさか!
 だが、なら誰だろう。それに、このメールの差出人は、おれの行動を監視してるみたいだ。
 いう通りにした方が、良いのだろうか?
 でも、逃げたところでどうにもならない。逃げ切れるはずがない。
 だけど、ここで捕まったら、一生惨めな人生しかない。怖い。捕まりたくない。
 刑事たちの姿は後者の中に消えた。この教室は三階にあるが、ここまで来るのにたいして時間はかからないだろう。
 さらに、メールが届く。
『急いで。間に合わなくなる』
「……!」
 唇を強く噛みしめる。だが、結論が出せない。
 そもそもこれは、現実の出来事なのか。
 悪い夢を見ているだけじゃないのか。
なら、早く起きないと。学校に遅刻する。学校が終わったら、ツヴァイク社から送られる任務も果たさないといけない。オミムネにはいつも中々連絡がつかないから、早めに連絡をつけておかないと――
携帯の画面が更に更新される。
『ここで捕まれば、キミは犯罪者だ。でも、ここは逃げて、無実を証明する方法もある』
 この一言が、慧一の心を突き動かした。
 同級生が唖然とする中、人にぶつかるのも構わず駈け出す。
「エニシ! どうしたんだ!」
 颯の声に答えることなく廊下に出ると、放課中、人でにぎわっている廊下を、強引に突き進んでいく。
『南側の階段を使って1階へ』
 指示に従って南階段へ向かったところで、視野の端に刑事が映る。
「待ちなさい! 君に話がある!」
 声に引きずられるように、足が止まる。
 これでいいのか。逃げてしまっていいのか?
 携帯が震え、メールが届く。
『早く! 捕まったら、何もかもお終いだ! 自分が何をやったのか、分かっているのかい?』
 昨夜、C4爆薬で五体を粉々にした、警備員たちの姿が脳裏に蘇る。外国の、戦争地域での事だから。そう思ったからこそ、罪悪感もなかった。これは戦争で、任務なのだと思っていたから。だが、あの残虐行為が行われたのは日本で、それもテロだったのだ。
 慧一は走ってくる刑事に背を向け、階段を転がり落ちるような勢いで駈け下りた。
 逃れようがないと分かっていても、一時でもいい、しでかしてしまった行為のツケが回ってくるのを遅らせたい。現実となんて、向きあいたくない。
「少年が、逃走しました!」
 刑事が、無線に向けて叫んでいる。追いかけてくる足音。だが、二階まで来た時、下から駆けあがってくる無数の足音に立ち止まる。
 挟み撃ちにされた!
 咄嗟に携帯の画面を見る。
『窓から、飛び降りるんだ』
 躊躇(ためら)ったものの、選択肢はない。
 手近な窓を開けると、身を乗り出した。
 昨夜もクラスターで窓から飛び降りたことを思い出す。しかし、あのクラスターは『壊れ』ても構わない捨て駒だった。しかし、慧一の体は一つしかない。
 窓のさんにつかまって壁の外にぶら下がり、足から地面までの距離を最大限まで短くし、手を放した。
 ゾッとするような、浮遊感。
 すぐにふんわりとした腐葉土の上に着地したが、柔らか過ぎて逆に足を取られ、尻もちをついてしまう。
「――ううう」
 どうしてこんな目に、おれが遭わないといけないんだ。
 痛みの余り数秒、動けないまま心の中で弱音を吐いていたが、幸い足には以上もなく、立ち上がった時には問題もなかった。
「どこにいくんだ! 逃げ切れるはずがないだろう!」
 頭上から、怒声が飛んでくる。だがもう、振り返らない。
 慧一はそのまま走り出すと、校舎裏手の塀を越え、郊外へと脱出していった。


3.死者は蘇る

 学校を出てから、慧一は何時間も走り続け、時には橋の下や林の中に隠れて警察をまいた。その間、慧一からどれだけオミムネにメールを送っても、来るのは一方的に指示を伝えるメールだけだった。そうして、へとへとになった慧一をオミムネが最後に誘導した先は、廃ビルや風俗店などが立ち並ぶ怪しげな通りだった。
 懐かしい場所だな……
 思わぬところに連れて来られて、慧一は疲れを少しだけ忘れて感慨にふけった。
 この通りにあるゲームセンターには、昔からよく入り浸ってたもんだっけ。学校じゃ友達も少ないから、授業後、任務がない時は家に帰らずにここへここへ直行するのが日課だったもんな。
 そんな取るに足らない日々こそ、もう二度と自分には手に入れることのできない、安息の時間だったのではないかと思うと、心が鉄になったように重くなる。
 そいえば、一年前オミムネに初めて出会ったのも、ここのゲームセンターだったな。
 一年前、慧一は颯(はやて)たちに誘われてはじめてきたゲームセンターで、不良たちに囲まれカツアゲに遭いかけた。その時、慧一は十に満たない子供に助けられるという、奇異な経験をした。その子供こそ、オミムネだったのだ。
 当時オミムネは両親を早くに失い、学校にもいかずに不登校児として近所のゲームセンターに入り浸っており、不良たちの間でも顔がきいたのだ。
 この出来事以来、オミムネと慧一は親しくなり、クラスターによる戦闘で細かなマネージメントを行う相棒役に、慧一はオミムネを指名するようになっていった。

 もしかしたら、あれが全ての始まりだったのかもしれない。
 滴る汗をぬぐいながら、慧一は辺りを見回す。
 夕方時で少しずつ辺りに人は増えつつあるが、夜に華やぐ地域なので、まだまだ人通りは少ない。
『横の小道に入って』
 指示のまま、慧一はシャッターが落書きされた店の横にあった、道というより隙間に近い様なスペースに入りこんでいく。
「こんな所に連れて来て、どうしようっていうんだよ」
 ガタッ
 独りごとに思わぬタイミングで音がしたので、ドキリとして辺りを見回す。
 ビルの間だけあって、既に日もささず、奥はかなり暗い。
「だれか、いるのか?」
 何か見えた気がして、目を凝らす。
最初、赤い棒と金色の二つの球が浮いているのかと思った。しかし、すぐに闇の中から輪郭が現れ、赤い首輪をつけた、一匹の黒ネコがいるのだと気付く。
「なんだ、ネコか。驚かすなよ」
 安心して、ほっと息を吐く。
「キミが臆病すぎるんだろ?」
「……え?」
 息を吐き出した姿勢のまま、硬直してしまう。
 今、間違いなくネコから声が聞こえたような……。
 ネコは慧一の反応など気にも留めず、小道を塞ぐように積み上げられたガラクタの上で、優雅に毛づくろいを始める。
 慧一は耳元をかきながら半信半疑で言った。
「今のは、空耳……だよ、な」
「あんなはっきりした空耳が聞こえたって言うのなら、聴覚検査を受けることをお勧めするよ、狩谷」
 慧一は思わず、ネコから飛びのいてしまう。
 ネコの口は動いていなかったが、間違いない。声はネコから聞こえた。
 誰かの、手の込んだいたずらか? でも、この子供っぽい声に、皮肉めいた喋り方は……
「オミムネ、なのか?」
「ネコに決まってるじゃん」
「おい!」
 この憎たらしいクソネコ、保健所にでも通報してやるべきか。
 怒りに頬をひくつかせる慧一を見て、ネコは可笑しそうに笑った。と言っても、やはりネコの表情は変わらず、小さな笑い声からそう感じられるだけだ。
「相変わらず、面白いね。――久しぶり、狩谷」
「……本当に、オミムネなのか」
 驚きの余り、疲れも不安感も、何もかも吹っ飛んでしまい、もうただただ呆れることしかできない。
「だから、言ってるだろ? ネコだって。死んでもキミの事が心配でね。こうしてネコに生まれ変わってまで、キミの事を見に来てあげたんだよ。いや〜、閻魔大王に事情を説明するのは、けっこう大変だったよ」
 黒ネコが大仰に首を振る。しかし、慧一はまだ半信半疑だ。
「生まれ変わりに、閻魔大王だって? 再生医療のおかげで体の部品を自由に交換できるようになったこの時代に、そんな話信じれるかよ」
閻魔大王も悩んでたよ。人間が百歳を超えても平気で生きているようになっちゃったから、最近暇で暇で仕方がないって。だから、ボクの話も親身になって聞いてくれたんだよ」
「そ、そっか……そんなもんなんだ」
 それならいつか、死んでしまった祖父母の生まれ変わりにも、会えることがあるのかもしれない。
 慧一は人類が永遠に謎としてきた真実を知って、心から感動した。
「ま、もちろん全部ウソだけどね」
「え?」
 慧一の目が点になる。
 慧一の間抜けな表情がよほど面白かったのか、オミムネ・ネコはガラクタの上で身をよじって笑い転げた。
「アッハッハッハ。キミって、やっぱりおもしろい〜」
 こ・ん・の、クソネコが〜!
 完全に遊ばれたのだと知って、怒りの表情で睨みつけていたところ、ネコはとうとう笑い過ぎて、ネコらしからぬことに、ガラクタの上から転がり落ちてしまった。
「フギャ! オ……、オウウ……せ、背中が……」
 痛みに悶えているところを、首筋を捉えてむんずとつまみ上げる。
 慧一の怒りの籠った目線を受けて、ようやくネコは自身の危機的な状況を悟ったらしい。
「へへへ……」
 ネコは尻尾を揺らし、愛想を取る様な表情をする。もちろん実際にネコの顔が変化しているわけではないが、はっきりとそうしようとしているのが伝わってくる。
 慧一は構わずネコの首輪をもう片手で掴み、周囲を探っていく。
「思った通りだ」
 そこには機械仕掛けのマイクとプラグがあった。プラグの先はネコの毛皮の中へと入っていき、最終的には皮膚の中へ食い込んでいる。
「ありゃりゃ、ばれちゃったか。残念」
 オミムネ・ネコがさして残念そうでもなく言う。
「話に聞いたことはあったよ。第二世代クラスターの中には人間型の生体ユニットを用いたK―2以外にも、偵察用に他の動物型ユニットを採用しようという動きもあったってね。でも、現実には感覚器や神経系の構造が異なる生き物とでは情報伝達のやり取りに齟齬が生まれ、上手くいかなかったと聞いたけどな」
「このネコちゃんは、その時に廃棄されそうになってた試験体の一つだよ。ボクがこっそり横取りして、世話してたのさ。オミムネ・ネコ。略してオミムネコ。なんちゃって」
 オミムネの下らない戯言には付き合わず、慧一はゆっくりとオミムネ・ネコを再びガラクタの上に戻して、言った。
「でも、それは根本的な答えになってない。クラスターがここにいるということは、どこかに必ず操縦者がいる、ということだろ。オミムネ、お前は生きてるのか?」
「さあ、どうだろうね。その答えはきっと、これから決まるんじゃないかな」
「? どういう意味だよ、それ。いや、それだけじゃない」
 ようやく、ネコが喋るという珍事の衝撃から立ち直った慧一は、矢継ぎ早に質問をぶつけた。
「さっきまでのおれを誘導したメールも、お前が出してたのか? それに、昨日の任務を通知するメールも。お前のせいで、おれは警察から追われる羽目になってるんだぞ、どうしてくれるんだ!」
 一度いいだすと、堰が切れた様に言葉があとからあとから出てくる。同時に、殺意にも似た衝動的な怒りが腹の底から湧き出してくる。
 このネコが、おれの人生をめちゃくちゃにしたんだ!
「まあまあ、落ち着きなって。感情に任せて焦ったところで、良いことないよ?」
「これが落ち着いていられるか! 捕まれば、少年院いきになるかもしれないんだぞ。そうでなくても、もうおれの人生、終了のお知らせだろ、これ!」
「おお、意外と小洒落たいい方をするね、キミも。ボクのお陰で、ユーモアのセンスがついたかな?」
「……コロス」
 本気で、首筋を持つ手に力を込める。
「ど、動物虐待、は、反対……」
「なら、真面目におれの質問に答えろ」
 さらに、首を強く締める。オミムネが、尻尾を必死に左右に動かし、降参をアピールする。
「わ、わかった、こ、答える、から」
「……今度はぐらかしたら、容赦しないからな」
 釘を刺した上で、ガラクタの上に下ろしてやる。
 オミムネは暫く咳き込んでいたが、ようやく喋り出した。
「全く、乱暴なんだから。でも、こうなったらもう、全部話すよ。ニュースでいわれている通り、キミに偽物の指令メールを送ったのはボクさ。その後、ツヴァイク社のセキュリティを破ってクラスターのコントロールを奪い取り、キミが任務で使えるようにしたのもボク」
「やっぱり、か。お前ならやれるだろうとは、思ってたよ」
「さっすが、ボクの相棒。よく分かってるじゃん」
世間では弱冠十歳の少年が国内で最も堅固に守られている武装商社のセキュリティを破ったと、衝撃を持って受け止められていたが、慧一はオミムネならそれぐらいやってのけるだろうということを知っていた。
クラスターにしろ何にしろ、どんな分野でも年齢に関わらず天武の才を持っている人間というのはいるものだ。そして、オミムネがことハッキングにおいて、そうした人間の一人だということは慧一もこれまで嫌というほど見てきていた。特に、任務の途中でオミムネが監視カメラをハッキングして情報を流してくれたり、相手の通信システムを破壊してくれたことで、仕事がどれだけ楽になったか知れない。
「それだけの才能があったからこそ、その歳でおれの相棒でいられたんだ。国内にたった24人しかいないS級ライセンスを持つ武官の相棒なんて、並大抵のことじゃ勤まらないからな」
「……狩谷、無意識なのか知らないけど、そういう自慢、イタイからやめた方がいいよ……」
 ネコに悲しげな瞳で見上げられて、真っ赤になってしまう。
「うるさい! それで、どうしてそんな事をしたんだ!」
 オミムネが、つまらなそうに欠伸をする。
「そりゃもちろん、五人組の一人として、『彼女』の身柄を確保しておきたかったからさ。ま、もっとも、そいつはキミが見事にしくじってくれた訳だけど」
 『五人組』『彼女』……! どうやら、ついに事の真相を聞くことが出来そうだ。
「五人組ってのは何のことだ? 彼女――あのおとぎの部屋にいた少女は何者なんだ? どうしてそれほど、重要なんだ!」
「うん、そのことなんだけどさ――」
 慧一の矢継ぎ早の質問に対し、語りながらいかにも自然な動作で、オミムネは身を翻すと、絹を思わせる滑らかな動作で壁伝いに設置されていた配管を駆け上がり、二階部分のベランダに登ってしまった。
 余りに突然のことで、慧一は唖然としていたが、オミムネが手の届かないところにいってから、ハッとしたが、もう手遅れだった。
「こ、コラ、オミムネ! 肝心のところで、逃げるんじゃない!」
「キミはもう少し、クラスター以外のことも学んだほうがいいんじゃないかな。ネコを手放しにしておいたら、逃げられるに決まってるじゃないか」
 こ、こんのお……十歳の子供に、説教されるとは!
 悔しいやら情けないやらで、慧一は階下から怒鳴り散らす。
「高いところから説教垂れてないで、下りて来い! 中国人ばりに、ネコ鍋にしてやる!」
「おお、怖い。せっかくキミの危機的な状況を解決してあげようと思ってたのに」
 思いがけない言葉に、慧一は怒りも忘れ、勢いづいて訊ねる。
「本当か! そんな方法、あるのか?」
「ボクが相棒をはめたりなんてするはずないだろ? 解決策ならばっちり、用意してあるよ」
 解決策が必要な時点で、十分はめてるだろ。
 だが、この際そんな事はいってはいられない。
「わかった。それで、どうすればいい?」
「二週間」
「え?」
「二週間後、またキミにメールを送る。そこで指示された場所に来て、ある仕事を、クラスターでこなして欲しいんだ」
 仕事、と聞いて、嫌な予感がよぎる。
「まさか、またテロの片棒を担がせるつもりか?」
「安心してよ。武装商社からの、正式な依頼さ。ただどうしても難しい仕事だから、助っ人が必要なんだよ。それで、キミに白羽の矢が立ったってわけさ」
 どうにも、話の筋が見えない。ここは慎重に答えるべきだろう。
「どうして、おれなんだよ。それに、その仕事とおれにかかってる犯罪の容疑と、どう関係してくるんだ?」
「この仕事さえ成功したら、ボクが警察の捜査リストからキミの名前を消してあげるよ。なに、大したことじゃないさ。いつの間にかデータがほんの少し書き変わっていて、刑事さんたちが首をかしげるだけだよ。証拠も何も残らず、キミは晴れて潔白の身だ」
 ネコの瞳が、夕日を受けて禍々しく輝く。
 慧一はこの時、初めて自覚していた。これは、テロリストによる、悪魔の取引の誘いなのだと。
 どれだけ幼かろうと、どれだけ可愛らしい見た目をしていようと、オミムネは慧一を利用して研究所を襲撃し、何の罪もない一般人を虐殺させた、テロリストだ。そして、慧一を巻き込んだ上で都合よく、今度は『無罪』を餌に働かせようとしている。
「……お前がそんな奴だなんて、思ってもみなかったよ、オミムネ」
 苦々しい思いが込み上げてくる。
いつからかは知らないが、おれはオミムネに利用されていたんだ。
オミムネとコンビを組むようになって一年以上。慧一は何といっても、この皮肉屋で天才的なハッカーである少年を信頼しきっていた。
「ボクは、キミという優秀な武官の助けが欲しいだけさ」
 小馬鹿にするような声に、ぎりり、と奥歯を噛みしめる。
「それで? その仕事をおれがこなすことで、お前はどんな得をするんだ? 小海(おうみ)宗則(むねのり)!」
「あれ、本名で呼ぶだなんて、珍しいね。フフフ、そんな怖い顔しないでよ。ボクは別段、その作戦で得したりなんてしないよ」
「じゃあ、何が目的だ! 五人組とやらがどんな組織化は知らないが、お前みたいな過激派思想なんて、今時流行らないぞ。二十年前の『暗黒時代』ならいざ知らず、今じゃテロリストなんて天然記念物だ」
「ボクは過激派にかぶれたおバカさんたちとは違うよ。キミのいう通り、普通に武装蜂起なんてしたところで、クラスターが相手じゃ、一蹴されるだけなのが目に見えてるしね。だから、安心してよ。こいつは純粋に、フェアな取引だから」
「そんな保証、どこにある!」
 噛みつく慧一に、オミムネは高みから笑いかける。
「ないよ。でも、キミには選択肢なんてないんじゃないかな。まあ、ボクが思うに、仕事が終わる頃には、きっと率先的にボクらに協力したいと思っているはずだよ」
「どうしてだよ」
「さーあね〜。二週間後に詳細を知らせるまでの間は、ここに隠れているといい」
 オミムネの前足が動き、ベランダから小さな光るものが落ちてくる。拾い上げて見ると、鍵だった。携帯がメールの着信を告げる。
「詳しい場所は送っておいたよ。最低限の食料と、現金も置いてある。ああ、でも携帯の電源は二週間後まで切っておいてね。警察に嗅ぎ付けられて捕まったんじゃ、お互い、こまるだろ? それじゃ、二週間後、良い返事を期待してるから!」
 オミムネは再び配管に飛び乗ると、器用に伝っていき、姿を消した。鍵を手にして呆然とする慧一を残して。


4.死者は手招きする

 オミムネからあてがわれたのは、慧一の家から一駅分離れた、寂(さび)れた路地の一角にあるアパートの一室だった。気は進まなかったが、他に行くあてもなく、慧一は二週間の間、そのアパートに滞在した。オミムネのいっていた通り、アパートには大量のカップ麺と3万円の現金が置かれており、生活そのものに不自由はなかった。だが、アパートそのものは最悪だった。
 どうやら、ここは黒蝶会なる新興宗教組織が寮として多くの部屋を借り上げているらしく、夜な夜なおどろおどろしい経文や奇声が聞こえてきてまともに寝ることが出来ず、昼は昼で信者の家族と思われる人々が、「○○を返せ―」などと娘や息子の名前を拡声器で叫んで来て、とてもゆったりと羽を伸ばせる環境ではなかった。
 ただでさえ、追われているというプレッシャーからまともに眠れず、寝たとしても悪夢を見るばかりだった。唐突に吐き気を感じて嘔吐することも、日常茶飯事だ。その上にこの状況では、慧一の目の下に大きなくまが出来上がるまで、1週間とかからなかった。
 ただ、悶々と明日をも知れぬ日々を過ごす中で、毎日、すぐ近くにある小さな漫画喫茶に通うことだけはやめなかった。どうしても、あのテロについての捜査がその後どうなったか、調べずにはいられなかったのだ。近くの店で買った帽子を目深にかぶり、マスクをつけて深夜、人目を忍んで入店し、部屋に備え付けられた旧式のパソコンで情報をあさった。
 捜査はどうやら暗礁に乗り上げているらしく、公式な発表では慧一がアパートに潜伏している間、何の変化もなかった。一方、『五人組 テロ』というワードを検索にかけると、想像以上のサイトがヒットした。
「なんだよ、これ……」
 その内容に、思わず目を見張る。
 政府コンピューターへのクラッキングから爆弾テロ、要人の暗殺まで。公には海外のハッカーや事故によるものとされている出来事の黒幕として、五人組の名前が挙がっていたのだ。
もしオミムネの言葉がなければ、こんなもの都市伝説に過ぎないと一笑にふしていただろう。オミムネにはめられ、テロの片棒を担がされた今なら、これらが決して根も葉もないでたらめではないと分かる。それらのサイトによると、五人組とはこうしたテロ活動を指揮する五人のリーダーを指すらしい。
だが具体的な情報はなく、それ以上は諦めるしかなかった。
溜息をついてPCアドレスのメールボックスを見ると、親から早く帰ってくるようにとの簡潔なメールが届いていた。その文面から、息子の行方を心配している気配は蚊ほども感じられない。
 こんな時にも、あの人たちの安定感は抜群だな。
 くすり、と笑ってしまう。両親の冷たさが、この時ばかりは救いだった。
他に、同級生たちから、何があったのかと問い質すメールが10通ほど。学校の掲示板では、思った通り、慧一のことが大きくとりざたされていた。
どうやら、警察は慧一のことを『重要参考人』として、学校の生徒に片っ端から行方を聞いて回っているらしい。
 心臓が、鷲掴みされた様な気分になる。
 もう、帰るべき『日常』など残されてはいないのだろうか?
 掲示板の中では、慧一がどんな犯罪に手を染めたのか、まことしやかに囁かれていた。テロ事件と結び付けている者も多かったが、根も葉もない話も多い。ただ、全てに共通しているのが、「やっぱり」「いつかはやると思ってた」「警察に追われて、良い気味だ」という慧一へのあからさまな悪意だった。慧一の無実を主張する者や、慧一を擁護する書き込みをしている者は、誰ひとりとしていなかった。
慧一は、孤独だった。
 不安と恐怖に押しつぶされそうになった2週間。慧一がオミムネの提案にを受け入れることを決心するには十分過ぎる時間だった。
 もしかしたらあいつは、このことも見越した上で、2週間後なんていう日にちを設定したんじゃないだろうな。
 しかし、例えそうだったとしても、慧一にはもう抗うすべはなかった。日常を取り戻すためなら、もう一度テロにでも、手を染める覚悟だった。

 そしてぴったり2週間後、起動した携帯電話に、オミムネから、集合場所を知らせるメールが届いた。
「場所は……このアパートの別室?」
 陰謀を企てるのにふさわしい、陰気でおどろおどろしい場所を想像していたため、肩すかしをくらった様な気分だ。
 しかし、このアパートを多用するということは、オミムネの計画にとって、このアパートは何か重要な意味を持つのだろうか?
 疑問は増えるばかりだったが、ここまで来ては、指示通りにする他ない。
 慧一は帽子とマスクをつけると部屋から出て、錆ついた階段を上り、恐る恐る指定された部屋へと向かった。
錆の浮いた白い鉄製の扉を前にして、大きく深呼吸する。緊張で表情が固くなっているのが自分でも分かる。この向こうで、何が待ち受けているのか、全く想像もつかない。相手はテロリストだ。場合によっては、口封じに殺されるかもしれない。
ぞくり、と鳥肌が立つ。
命のやり取りなんて、クラスターシステムの先だけで行われる物だったはずだ。それがいつの間にか、自分のすぐ間近にある。
だが、進むしかない。
慧一は生唾を飲み込むと、チャイムを押した。
 気の抜けるような余りに普通な呼び出し音が流れ、、すぐにドアが開けられる。
 しかし、ドアの向こうにあったのは壁――ではなく、天井に今にも頭が届きそうなほどの巨大な大男だった。
「う、うあああ?」
 三十過ぎぐらいなのだろうが、とんでもない迫力だ。オールバックの髪に、彫りの深い顔。Tシャツの袖口から伸びる、丸太の様な腕は剛毛で覆われている。
 ただでさえ緊張していた慧一は、腰を抜かしそうになりながら思わず後ずさりして、アパートの表札を確認した。部屋番号は間違っていない。この時、入るときには緊張していて気付かなかったが、『留(とどめ)木(ぎ)』の文字の下に、『タクノ社本社オフィス』と書かれていた。
タクノ社? どこかで聞いたことのある名前だ。しかし、このフランケンシュタインはなんだ!
「はい、れ」
 フランケンシュタインの口が微かに動き、低い、どすの利いた声が漏れ出る。慧一は蛇に睨まれたカエルの気分で、さらに一歩下がった。
「アハハハハ、なにびくびくしてるの? おっもしろーい!」
 大男にほとんど塞がれた入口の間から、ひょっこりと少女が顔を出していた。
「ぬああああ! あ、あんたは!」
 少女は頭に何故か亀をのせ、服の代わりに青い布を洒落たドレスの様に体にくるくると巻いている。ただ、巻き方が余りに無造作なために、肩口から布が緩んで、今にもはだけてしまいそうだ。その上、顔と額に何やら白でミミズがのたうつ様な曲線が描かれている。
 これだけでも十分驚きに値する珍妙な出で立ちだったが、慧一は少女の服装に驚いたのではない。
 小麦色の肌、勝気な瞳。一度見たら、決して忘れないだろう。
 ツヴァイクの研究所で出会った少女だった。
「あれ? あたしのこと、知ってんの?」
 少女が不思議そうに見返してくる。あの時はクラスターを通して会っただけなので、少女の側は慧一の顔を見ていないのだ。
「あんた、ツヴァイクの研究所の、あの変な部屋にいた、変なナポレオンのコスプレした、変な女子だろ!」
「だれがヘンだ!」
 不意打ちでボディに蹴りが飛んでくる。
「う、ごふううう」
 避ける間もなく、慧一は体をくの字に曲げてその場に膝を突く。
「どう? 今の正義の鉄槌で、少しは反省する気になった?」
 少女が勝ち誇る様に言う。頭の上の亀まで勝ち誇った顔をしているように見えるから不思議だ。
だが、慧一は痛みと驚きとで、反省どころではない。ただ、痛みに呻きながらも呆然と、少女の顔を見つめるばかりだった。少女は思い出したように付け加える。
「ああ、自己紹介がまだだったっけ。あんた、名前は?」
「お、おれは、狩谷慧一だ。というか、初対面の人間相手にあんた呼ばわりかよ」
 咳き込みながら答える。
「あたしはニケ。勝利の女神、ニケよ」
 勝利の女神? 亀を頭に乗せた笑いの神様の間違いじゃないのか?
「ん? なんかいった?」
「あ、いや、別に…ははは」
 適当に笑ってごまかす。ニケはまあいいわ、といって続ける。
「呼び方が気に食わないって言うのなら、慧一とでも呼ぼうか? でも代わりに慧一も、あたしの事、あんたとか言わずに、キッチリあたしが指定した名前で呼んでよね」
「オーライ。なんて呼べばいいんだ?」
「そうねえ、まず、その時に思いついた最高の褒め言葉を枕に付けて、『○○な勝利の女神、ニケ様』かな。最後はニケ女王様、でもいいよ。例を上げるなら、今日も最高にお美しい勝利の女神、ニケ様、とかねー」
「爬虫類と同棲している勝利の女神ニケ様」
「ちょっと! 勝利の女神の所に、全然心がこもってない! しかも、褒め言葉でも何でもないじゃない」
「思いつく限りでは、これが一番ましだったんだ……」
「って、頭ん中でどんだけ悪口考えてんのよ!」
 地団太踏んで悔しがるニケを見て、慧一の口からついつい、笑みが漏れる。
彼女がどんな秘密にかかわっているかは知らないが、悪い人間ではなさそうだ。
少女は慧一の反応などまるで気にも留めず、頭の亀と共に顔を近づけていい募ってくる。
「だいたい、未来のクラスター界の女王に、なーにが、爬虫類と同棲よ? ほら、謝罪しなさいよ、しゃ・ざ・い!」
 何が何だか、さっぱりだ。
 どうしてここにこの少女がいるのか、そして少女が何を言ってるのか、全く訳が分からない……。だ、誰か助けてくれ。
「さあ、土下座でもいいし、金銀財宝を差し出してもいいわ。……そうね、美味しい料理とかなら、なおいいかも! どれにする?」
 問いかけられて、思わず慧一は訊ね返す。
「二週間前の夜、鳴沢村の研究所にいただろ、あんた」
「ちょ、全然あたしの話聞いてないじゃない!」
 少女が眉をひそめるのに間構わず、問い詰める。
「え? 話? 話なら後から聞いてやるから、とにかく答えてくれ」
「あ、あんたねえ……そりゃ、二週間前って、あたしは――」
「……気色悪い」
「へ?」
 突然、少女の背後から幽霊のようにゆらりともう一人少女が現れ、慧一は狼狽した。その上、何故か第一声から人格否定までされてしまった。
 つーか、あんたの方がよっぽど気色悪いだろ。
 慧一が、心の中で反論する。新たに出現した少女は、長い黒髪にやたらと端正な顔立ちをした純和風の美しさを備えていたが、服装は異常だった。ノースリーブの黒のワンピースに、肘まである黒の手袋、黒のソックスに黒の革靴、要するに、全身黒ずくめなのだ。良く見ると、室内なのに手に日傘までもっており、それももちろん、黒。
「……さてはあんた、来る場所を間違えたな。葬式場は、駅向こうの方だぞ」
 などと、オミムネなら軽口を叩いていたところだろうが、慧一にそんな勇気などあろうはずもない。慧一に出来たことはせいぜい、無意味な笑みを顔に浮かべて、はあ、と意味のない相槌をうっただけだった。
「初対面の女の子に向かって、夜どこにいたか聞くだなんて、救いようのない変態ね、あなた」
 喪服少女の冷たい断言に、慧一は反論する余地も見いだせず、ひきつった笑みを浮かべることしかできない。
 おかしい……ここではテロリストの集会が行われてるんじゃなかったのか? ウドの大木みたいな男はまだしも、出てきた女の子は二人ともおれと同世代じゃないか。扉を開ける前の緊張感は、もう跡かたもなく消えてしまっている。
慧一が混乱していると、横で亀をのせた少女が呆れたように肩をすくめる。
「はは、相変わらず、涼香ちゃんは厳しいね。でも、あたしとしてはちょっとぐらい話聞いてあげてもいいんだよ? なんか、ウマい話かもしれないしさ」
 涼香? その名前に、慧一はふと聞き覚えがあるような感覚を覚える。
 当の涼香と呼ばれた少女は、慧一を疑いの目で見つめている。
「というか、あなたは何をしに来たの? あなたの様な子供が来るところじゃないのよ」
 同世代の女の子に、子供といわれるとは……。どうも今日は、厄日らしい。
 慧一はため息交じりに携帯の画面を開くと、涼香に見せた。
「このメールの差出人、小海(おうみ)宗則(むねのり)に呼ばれてここに来たんだよ」
「小海宗則?」
 涼香が不審そうな表情をするので、付け足す。
「通称、オミムネ」
 涼香の目が見開かれる。
「まさか、それじゃあ、あなたが『外道のカリヤ』?」
武装商社じゃ、そんな風に呼ぶ奴もいる」
 さっきまで、ずっとゴミを見る様な目で慧一を見ていた涼香が、初めて値踏みする様な視線を向けてくる。
「意外ね。こんな未熟で抜けてそうな男子が、あの冷徹で計算高い『外道のカリヤ』だなんて。嘘をついてるんじゃないでしょうね」
 もっともな指摘に、慧一は肩をすくめてみせる。
「よく言われるけど、プレイ中と私生活じゃ、キャラが違うんだよ」
「……いいわ。アルゴス。中に入れてあげて」
 大男が脇にどいて、入口を開ける。
 涼香が室内に戻って行く。亀を頭にのせた少女も後に続こうとして、思い出したように振り返って来た。
「あんたも仲間になるんだから、自己紹介しとかないとね。あたしはニケ。で、こっちはアルゴス。よろしくね! アルゴスはこの国では留木って名乗ってるけど。見た目は大きいのに、意外と小心者なのよ。ね、アルゴス
 大男が、かすかに頬を釣り上げて頷く。笑っているつもり、なのだろうが、怖い、怖すぎる。こんな巨人相手でも上から目線を崩さずにいられるニケは、もしかしたらすごい器の持ち主なのかもしれない。
「それで、あなたは?」
 興味深深な瞳に見つめられ、急な問いかけにどぎまぎしながら答える。
「ああ、おれは狩谷慧一。高2だ。よろしく」
「へえ、高校2年生なんだぁ」
「そうだけど、ニケは?」
「うーん、あたしは高校とか、いったことないから」
「え? じゃあ、今何やってるんだ?」
 立ち居振る舞いに幼い印象はあるが、中学生には見えない。
「あたしは、勝利の女神だから!」
「……えっと……」
 ダメだ。この子と話していると、途方もなく疲れそうだ。
「ニケ! その外道も連れて、早く入ってきなさい!」
「はーい」
 涼香の声に従って、二人とも部屋の中へ入る。
 というか、おれの呼び名は『外道』なのか……?

 とりあえず、ニケとアルゴスの二人に先導されて部屋の中へ入って行く。独身者用の部屋らしく、キッチンやトイレなどにつながる廊下の向こうに八畳ほどのリビングがあるだけのシンプルな造りだった。
リビングではすでに、座る余地がないほどに人が集まっていた。部屋の奥に置かれたモニターの横で集まった面々を見渡すような位置で立っているのが涼香。
彼女はここにいるメンバーでは主導的な立場なのだろうか。
それに対し、四人の中年男がベッドに腰をおろしたり、壁にもたれかかったりしている。二人は筋肉質な体格で、坊主頭の、いかにも謹厳な感じのする男たちだった。一方、残りの二人は逆で、目にかかる程伸びた髪に耳にはピアスをしており、体より一回り大きい服は汚れ、全身から不穏な空気を漂わせている。
そして半ば予想していたことではあるが、部屋の中央に置かれたテーブルの上には、ちょこりと黒ネコが座っていた。――オミムネだ。
張り詰めた空気に、慧一は気を引き締め直す。
オミムネがいるということはやはり、この集団は慧一をはめた、鳴沢村の研究所でのテロに関係しているのだ。ただ、ニケがいるということは、あれからニケを取り戻したというのだろう